1話 売れる街に着いた
前の街を出たのは、朝だった。
空はまだ白い。
石畳には夜の冷気が残り、馬の吐く息が薄く揺れる。門前に並ぶ人間も少なく、荷車の軋む音だけが静かな通りへ響いていた。
衛兵は眠そうな顔で書類を確認し、形式通りに印を押す。
それで終わりだ。
引き止められることもなければ、見送られることもない。
取引が終わった街なんて、だいたいそんなものだった。
門を抜ける。
荷馬車が街道へ出ると、石畳の硬さが消え、車輪が乾いた土を踏み始めた。
轍が深い。
昨夜も、それなりの数の荷が通ったらしい。
こういう道は嫌いじゃない。
人が通る道は、金が動く道でもある。
「次は、少し大きい街だ」
御者台からそう言うと、荷台で壁にもたれていた男が顔を上げた。
「どれくらいだ」
低い声だった。
「二、三日」
「遠いな」
カイルは膝へ肘を乗せ、軽く首を回した。
背が高いせいで、荷馬車の中では少し窮屈そうに見える。だが本人は慣れているらしく、揺れに合わせて自然に重心を調整していた。
左肩の古傷が、動くたびに服の布を引っ張る。
傭兵崩れらしい体だった。
「お前くらい強かったら、逃げられるんじゃないか?」
軽く言う。
カイルは一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめた。
「逃げても、行く先がない」
「正直だな」
「傭兵時代から、そういうのは得意じゃない」
冗談みたいな口調だった。
だが、嘘は混ざっていない。
昼を過ぎる頃には、街道の景色も変わっていた。畑が増え、風に揺れる麦の色が、森の緑に混ざり始める。
農具を担いだ人間や、荷を積んだロバと何度もすれ違った。
どれも街へ向かう流れだ。
道の脇には、簡易的な野営跡も見える。
黒くなった石。
踏み潰された草。
まだ新しい灰。
昨夜も誰かが泊まったのだろう。
「最後は、どうして捕まった?」
馬車の揺れに合わせながら聞く。
カイルは少しだけ空を見た。
「雇い主が死んだ」
「それだけか」
「それだけだ」
簡潔だった。
盛らない。
戦場帰りの傭兵なんて、後ろ盾を失えばそんなものだ。
身代金を払う相手がいなければ、最後は値札がつく。
向かいで話を聞いていたグランが、小さく鼻を鳴らした。
「戦場帰りは安くなる」
低く太い声だった。
グランは背こそ高くないが、肩幅がある。座っていても分かるほど腕が太く、指には火傷と切り傷の跡が何重にも残っていた。
道具を握って生きてきた手だ。
「経験者ほどな」
俺が言う。
「お前は?」
「山賊だ」
「定番だな」
「街を出た翌日だった。仕事を探しに行くだけだったんだが」
荷馬車が石を踏み、大きく揺れる。
カイルが軽く舌打ちした。
グランは微動だにしない。
揺れる荷馬車の中で体勢を崩さない辺り、普段から重いものを扱っているのが分かる。
初日の夜は、街道から少し外れた場所で野営した。
森へ入りすぎない。だが街道からも見えすぎない。
野営は場所選びが半分だ。
焚き火は小さく、風下へ置く。馬は木へ繋ぎ、荷馬車は林の影へ寄せる。
慣れた手順だった。鍋に入れたのは干し肉と豆だけだ。塩も少ない。
だが、夜の冷え込みの中では、温かいだけで十分価値がある。
火が爆ぜる。
馬が鼻を鳴らす。
遠くで、夜鳥が鳴いた。
カイルは荷台へ背を預け、腕を組んだまま目を閉じている。
グランは焚き火の火加減を見ていた。
ノアだけが少し離れた場所へ座り、暗がりをじっと見ている。
子供にしては静かすぎる。
「怖いか?」
俺が聞く。
ノアは一度だけこちらを見た。
「……別に」
即答だった。
強がりではない。たぶん、慣れている。
それが余計に面倒だった。
二日目。
道は少しずつ細くなった。
森が近い。
木々の影が街道へ伸び、昼でも空気が薄暗い。
だが魔物の気配は弱かった。道の脇には討伐証の杭が立ち、古い血痕も残っている。
定期的に掃除されている証拠だ。街の力は、こういう場所に出る。
昼を過ぎた辺りで、風が変わった。
湿った森の匂いが混ざる。
鳥の声が減り、代わりに木々の擦れる音が大きくなった。
「この辺りは安全だ」
俺が言うと、グランが短く頷いた。
「分かる」
説明はいらないらしい。
二日目の夜も野営だった。
今度は風が強い。木々が軋み、枝葉がざわついている。
遠くで獣の声がした。だが近づいては来ない。
ノアはその方向を一度だけ見て、それきり何も言わなかった。
三日目の昼前。
街が見えた。
最初に見えたのは、城壁だった。
高い。
灰色の壁が地平線を切り、見張り塔がいくつも頭を出している。
その周囲を、人の流れが絶えず動いていた。
荷車。
徒歩の旅人。
馬に乗った商人。
簡易露店まで出ている。
街へ入る前から、もう金の匂いがしていた。
「……でかいな」
カイルが呟く。
レイヴァルト。
王国西部でも最大級の商業都市だ。
王都ほど綺麗じゃない。
だが、人と物流だけなら負けていない。
元は街道の交差点にできた交易拠点だったらしく、今でも複数の街道がここへ流れ込んでいる。
だから人が集まる。
冒険者も、職人も、傭兵崩れも、仕事を探す流れ者も。
全部だ。
「大きいだけだ」
俺は言う。
すると、グランが小さく首を振った。
「違う」
「何がだ」
「音が多い」
その通りだった。
門の外からでも分かる。
鉄を打つ音。
怒鳴り声。
荷車の軋み。
人の笑い声。
街が、生き物みたいに鳴っている。
門を抜けた瞬間、空気が変わった。
油の匂い。
鉄の匂い。
汗と酒と、焼いた肉の匂い。
人が多い街特有の熱気が、一気に押し寄せてくる。
通りは広い。だが人が多すぎて、狭く感じる。
門近くには宿と露店が並び、その向こうには冒険者ギルドの大きな建物が見えた。
さらに奥では、鍛冶場の煙が空へ上がっている。
貴族区はもっと奥だ。道幅も建物も変わる。
静かだが、金の匂いだけは濃い。
レイヴァルトは、人が多い街だ。
そして同時に、人手が足りていない街でもある。
戦える奴。
作れる奴。
直せる奴。
役割を持つ人間は、常に値段がつく。
商人にとっては、都合がいい。
「冒険者ギルドだ」
俺が顎で示すと、カイルの視線が自然とそちらへ向いた。
入口には武器を持った連中が何人も出入りしている。
依頼帰りか、朝から酒臭い。
景気は悪くなさそうだった。
「……行けるか」
カイルが言う。
「試すだけだ」
「奴隷でも?」
「だから試す」
完全に無理なら、そもそも選択肢に出さない。
グランは鍛冶屋街を見ていた。
煙を眺める目が少しだけ変わっている。
ノアは、人の流れと建物の配置を見ていた。
逃げ道でも探しているのか、それとも癖か。
「今日は、いきなり売らない」
そう言うと、三人の視線がこっちへ向いた。
「まず、値段を確かめる」
「誰からだ」
カイルが聞く。
俺は冒険者ギルドを指差した。
「お前だ」
カイルは少しだけ笑った。
「分かった」
即答だった。
レイヴァルトは大きい。
人も多い。
役割も多い。
そして――足りていない。
売れる条件は、揃っている。
あとは、どこまで値段を上げられるかだ。




