3話 取引の話をしよう
朝は早かった。
宿の窓から差し込む光は、まだ白く柔らかい。通りの向こうで戸板を外す音がして、どこかの家から薄い煙が上がっている。
街は半分だけ目を覚ましていた。
露店はまだ並びきっていない。市場へ向かう荷車が一台、軋む音を立てながら通りを進んでいく。人の声は少なく、足音だけがやけに響いた。
噂が立ちにくい時間だ。
こういう話をするには、悪くない。
「行くぞ」
声をかけると、リーナはすでに立っていた。
服は昨日と同じだが、乱れはない。髪も簡単にまとめ直している。目の下には薄く疲れが残っていたが、逃げ出しそうな気配はなかった。
むしろ、逃げ場を自分で閉じた人間の顔をしている。
「この時間なら、いると思います」
宿を出て、まだ人の少ない通りを歩く。
昨日より街は静かだった。踏み固められた土の道には夜露が残り、靴裏に少しだけ湿った感触がある。
遠くで鳥が鳴いた。
森の方からだ。
今日もこの街は平和らしい。
「理由は?」
「……父は、朝が早い人だったので」
短い返事だった。
だが、それだけで十分だった。
昨日と同じ道を辿る。
市場を抜け、職人街の手前を曲がる。鍛冶場の炉にはまだ火が入ったばかりで、鉄を打つ音は少ない。代わりに、木桶へ水を汲む音や、誰かが咳払いをする音が聞こえた。
リーナの足取りは迷わない。
ただ、家が近づくにつれて歩幅が少しずつ小さくなる。
本人は気づいていないだろう。
「止まるか?」
「……いえ」
即答ではなかった。
それでも、足は前に出た。
昨日見た小さな家は、変わらずそこにあった。
低い塀。
狭い空き地。
伸びかけた雑草。
扉は閉まっているが、放置された家の匂いはしない。窓の内側には薄い布が掛かっていて、軒先には使い古した箒が立てかけられている。
人が住んでいる。
少なくとも、生活は続いている。
俺は扉の前に立ち、軽く叩いた。
一度。
少し間を置いて、二度。
中で何かが動く音がした。
椅子を引く音と床板を踏む音。
それから、扉がゆっくりと開いた。
顔を出したのは年配の男だった。
細いが、骨張った手をしている。目元と口元に、リーナの面影があった。
「……どちら様で」
警戒した声だった。
当然だ。
朝早く、見知らぬ男が家の前に立っている。
まともな人間なら、警戒する。
リーナが一歩前に出た。
「……父さん」
男の動きが止まった。
まばたきも忘れたように、リーナを見る。
顔。
髪。
服。
そして首元。
そこに残る奴隷の印を見た瞬間、男の喉が小さく鳴った。
「……リーナ?」
「……はい」
声が震えたのは、どちらだったか分からない。
奥から足音がした。女性が顔を出す。
母親だろう。
リーナを見た瞬間、口元を押さえた。目が見開かれ、次に膝から力が抜けるように壁へ手をつく。
「……生きて」
「……母さん」
リーナの声が細くなる。
母親が近づく。
すぐに抱きしめるわけではなかった。
恐る恐る肩に手を置き、本当にそこにいるのか確かめるように指を滑らせる。
それから、何度も名前を呼んだ。
「リーナ……リーナ……」
大声ではない。
けれど、静かな家の前では十分すぎるほど響いた。
俺は一歩下がる。
こういう場面に商人が混ざると、空気が濁る。
濁るだけならまだいい。
値段まで濁る。
父親が、ようやく俺を見た。
警戒と混乱が入り混じった目だった。
「……あなたは」
「ジェイド。商人だ」
「商人……?」
視線が荷馬車の方へ流れる。次に、リーナの首元へ戻った。
理解した顔になる。
「……奴隷商人、ですか」
「そうだ」
空気が変わった。
母親の手が、リーナの肩を強く掴む。
父親は一歩前に出かけて、そこで止まった。感情だけなら、俺を殴りたいだろう。だが、現実がそれを止めている。
「娘が……」
「今は、俺の商品だ」
はっきり言った。
曖昧にすれば、この後で必ず揉める。
泣いても、怒鳴っても、事実は変わらない。
「中で話そう」
父親はしばらく俺を見ていた。
やがて、奥へ視線を向ける。
「……入ってください」
家の中は質素だった。
使い込まれた机。
擦り切れた椅子。
壁に掛けられた古い道具。
棚には欠けた器が並んでいる。床板はところどころ沈むが、掃除はされていた。
貧しい。
だが、雑ではない。
生活を投げていない家だ。
椅子に座ると、母親はリーナの隣から離れなかった。
座ったかと思えば、すぐに立ち上がり、水を出そうとして手を止める。また座り、リーナの手を握る。
指先が震えていた。
隠そうとしているが、隠せていない。
◇
最初に口を開いたのは、父親だった。
「……すまなかった」
低く、掠れた声だった。
リーナは何も言わない。
父親は机の木目を見つめたまま、言葉を絞り出す。
「あの日だ。森に薬草を取りに行くって言った時」
母親の肩が小さく揺れた。
「俺が、止めなかった」
沈黙が落ちる。
窓の外を、誰かの足音が通り過ぎた。
それが遠ざかるまで、誰も喋らなかった。
「薬屋に持っていけば、少しは足しになるって……」
母親が続けた。声は細い。
「森の浅いところだけなら大丈夫だって、そう言ったのに」
組んだ指が白くなる。
「最近、薬草の値が下がって……でも、家の薬も足りなくて……」
言い訳に聞こえる。だが、言い訳ではない。
貧しい家が森に頼る理由など、だいたい決まっている。
危ないと分かっていても、行かないと足りない。
それだけだ。
「俺が、もっと稼げていれば」
父親の拳が、机の上で震える。
「街の外に出る必要なんて、なかった」
拳が落ちた。
強く叩いたわけではない。
それでも、古い机は鈍く鳴った。
「……違う」
リーナが小さく言った。父と母が顔を上げる。
「薬草を取りに行くって、決めたのは私」
声は震えていた。
だが、目は逸らさなかった。
「森の浅いところなら大丈夫だって、私がそう思っただけ」
母親が唇を噛む。父親は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「生きてて、本当に良かった」
母親の声が崩れる。
それで、リーナの目から涙が落ちた。
大きく泣くわけではない。
ただ、溜まっていたものが、静かにこぼれただけだった。
俺は黙っていた。
ここで口を挟むほど、野暮ではない。
森に入った理由は分かった。
無謀だったわけじゃない。
余裕がなかった。
それだけだ。
そして、この世界では、それだけで人は売られる。
しばらくして、父親が深く息を吐いた。
顔を上げる。
目が、ようやく現実に戻っていた。
「……それで」
父親の視線が俺に向く。
「娘は、どうなる」
ここからが本題だ。
「今は、俺が合法的に所有している」
俺は静かに言った。
「だから、話をしに来た」
母親が息を呑む。
リーナは俯いたまま、手を握られている。
「……買い戻す、ということですか」
「そうだ」
父親は即答しなかった。
机の上に置かれた自分の手を見る。
指には古い傷がいくつもあった。職人の手だ。
金持ちの手ではない。
「正直に言う」
俺は続けた。
「全額を金で払うのは難しいだろう」
二人は否定しなかった。
その沈黙が答えだった。
「だが、条件は作れる」
父親が顔を上げる。
「……条件?」
「金は、用意できる分だけでいい」
母親の目が揺れる。
「残りは、この家が持っている“価値のある物”で埋める」
父親の眉が、わずかに動いた。
心当たりがある顔だ。
「……武器、ですか」
「そうだ」
用途は言わない。この場で必要なのは価値の話だけだ。
「使われていない。だが手入れはされている」
俺は父親の手を見る。
「そういう物があるなら、値はつく」
父親は黙った。
母親はリーナの手を強く握っている。
リーナは何も言わない。だが、その沈黙は逃げではなかった。
聞いている。現実を。
やがて父親が立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
「……少し、待ってください」
奥の部屋へ消える。
しばらく、誰も喋らなかった。
母親はリーナの髪に触れている。
何度も、何度も。
そこにいることを確かめるみたいに。
やがて父親が戻ってきた。
布で包まれた長物が三つ。それから、小さな袋。机の上に置かれた布が解かれる。
剣が二本、槍が一本。
古い。
だが、刃こぼれはない。柄の革も巻き直されている。飾り物ではない、使える武器だ。
「……これで、足りますか」
父親の声には、覚悟が混じっていた。
手放したくない物なのだろう。
だからこそ、価値がある。
俺は小袋を手に取り、重さを確かめる。
次に剣を一本抜いた。
刃を光にかざす。
悪くない。
「十分だ」
母親が小さく息を吐いた。父親はその場で目を閉じる。
俺は帳面を開き、必要な記載をする。
名前。
金額。
代替品。
所有権の移転。
こういう時、文字は冷たい。だが、冷たいからこそ揉めない。
最後に印を押し、帳面を閉じる。
皮袋布を取り出す。古びているが、汚くはない。その布に特殊な液体を含ませ、手の甲にある印を拭き取る。
「成立だ」
誰もすぐには動かなかった。
言葉だけが部屋に残る。
「この時点で、リーナは俺の商品ではなくなる」
母親が、口元を押さえた。
「……本当に」
「ああ。売却は完了した」
リーナがゆっくり顔を上げる。
涙の跡が残っていた。
「……私、戻っていいの」
「戻れる」
俺は答える。
「ただし、今すぐ全部が元通りになるわけじゃない」
リーナは黙って聞いていた。
「家の金は減った。武器も失った。近所には説明も必要になる」
父親の表情が引き締まる。
母親も、泣きながら頷いた。
「だが、戻る資格は取り戻した」
それで十分だ。
少なくとも、今日のところは。
母親がリーナを抱きしめた。
今度は、遠慮がなかった。
父親は深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
俺は武器を布で包み直す。
「俺は、売っただけだ」
それ以上の言葉は不要だった。
家を出ると、街はすっかり動き始めていた。
市場の方から呼び声が聞こえる。
鍛冶場では鉄を打つ音が鳴り始めている。
通りには人が増え、朝の静けさはもう消えていた。
リーナは家の前に立ち、何度か息を吸った。
「……終わったんですね」
「ああ」
「……私、もう」
「自由だ」
リーナは目を伏せる。
そのまま、ゆっくり頷いた。
「……はい」
短い返事だった。
だが、それで十分だった。
金と、価値のある物。
条件は悪くない。
感情は値段に乗る。
今回は、その形が少し分かりやすかっただけだ。
これで一件、成立だ。




