2話 街へ
門の前で荷馬車を止めると、槍を持った衛兵が二人、気怠そうにこちらを見た。
昼の陽射しは強くない。薄い雲が広がっていて、風も少し湿っている。門の上では、色褪せた旗がだらりと揺れていた。
衛兵は若い。
鎧は擦れているが、放置されているわけではない。革紐も切れていないし、槍の穂先にも欠けは見当たらなかった。
金はないが、最低限は回っている街。
そういう空気がある。
「用件は?」
片方が面倒そうに声をかけてくる。
俺は御者台に座ったまま、荷台を親指で示した。
「商売だ」
衛兵の視線が、幌の隙間へ向く。
「……奴隷か」
「四人。書類は揃ってる」
そう言って懐から束を取り出すと、衛兵は片手で受け取った。
紙を捲る音。
その間、もう一人の衛兵が荷馬車を眺めている。
男二人、子供一人、女一人。
視線はそれぞれを軽く撫でるだけだった。値踏みでも興味でもない。問題を起こしそうかどうか、その確認だけだ。
奴隷商人という仕事は、案外目立たない。
店を構えて市場に居座る連中もいるが、俺みたいに荷馬車一台で移動する商人も珍しくはなかった。
書類さえ問題なければ、あとは旅商人と大差ない。
違法商人だけだ、面倒なのは。
所属が曖昧だったり、印が古かったり、妙に人数が合わなかったりする。そういう連中は大体ここで止まる。
そして話が長くなる。
話が長くなると、金も減る。
「……問題ないな」
衛兵が書類を返してきた。
「滞在は?」
「一泊か二泊。取引が終わったら出る」
「騒ぎは起こすなよ」
「起こしたら俺の胃が死ぬ」
衛兵の口元が少しだけ動いた。
笑った、というほどでもない。
ただ、“面倒なタイプではなさそうだ”くらいには判断されたらしい。
ふと、もう一人の衛兵がリーナを見る。
リーナは視線を上げなかった。
だが俯きすぎもしない。
荷台の揺れに合わせるように静かに座り、膝の上で指を組んでいる。
怯えて縮こまるわけでもなく、強がるわけでもない。
こういう態度は余計な興味を引かない。
「通っていい」
門が軋みながら開く。
荷馬車を進めると、外とは空気が変わった。
人の声が近い。
焼いたパンの匂い、家畜の臭い、湿った土の匂い。どこかで煮込みを作っているらしく、香草の匂いまで混ざっている。
貧しい街だ。だが、死んではいない。
通りは広くない。露店が並び、道の端には木箱や麻袋が積まれている。邪魔だが、誰も気にしていない。荷運びの男がその横を無理やり通り抜け、八百屋の老婆が怒鳴る。
子供が走り回り、犬が吠え、遠くでは鍛冶場の金属音が響いていた。
街が動いている。
「街に入ったら勝手に動くな」
後ろへ向けて声を投げる。
男二人は短く返事をし、リーナは一拍遅れて頷いた。
子供は毛布に埋もれたまま眠っている。
大物だ。
普通の宿に奴隷を四人連れ込むと面倒になる。
嫌がる宿もあるし、客が騒ぐ場合もある。
だから、こういう街には最初から“そういう商人向け”の宿がある。
目立たないが、見れば分かる。通りを一本外れる。
途端に喧騒が少し遠のいた。
建物同士の間隔も狭い。洗濯物が頭上に渡され、窓から煮炊きの煙が流れている。
湿った空気の中、古びた看板が見えた。
厩付き。
入口は広め。
「ここだな」
荷馬車を止め、中へ入る。
床板が軋んだ。
古い建物だが、腐ってはいない。壁の染みは消えていないが、埃は少ない。金はかかっていないが、放置もされていない。
宿主は年配の男だった。
背は低い。
だが腕は太く、片手で木箱くらいなら持ち上げそうな体をしている。
こちらを見る目に驚きはなかった。
慣れている。
「部屋を借りたい」
「何人だ」
「俺一人と、商品が四人」
宿主は帳簿へ目を落とし、指で何かを確認する。
そのあと、リーナの方へ一瞬だけ視線を向けた。
値踏みじゃない。
夜中に騒ぐか、逃げるか、その確認だ。
「何泊」
「一泊。長くても二泊」
「前払いだ」
「構わん」
「騒ぐな。逃がすな」
「逃げたら俺の損だ」
即答すると、宿主は鼻で笑った。
「違いない」
提示された額は銅貨10枚。
安い。
だが、この街ならこんなものだろう。
銅貨を置くと、宿主は無言で鍵を差し出してきた。
説明はない。こういう宿では、それで足りる。
奥の部屋は簡素だった。藁は新しい。水桶も洗われている。
窓は小さいが、外から簡単に覗ける位置ではない。閉じ込めすぎず、逃げやすすぎもしない。
ちょうどいい。
「ここで待ってろ」
男二人は壁際へ座り込む。
子供は毛布に潜ったまま寝返りを打った。
リーナは入口から少し離れた場所へ腰を下ろす。
膝の上で手を組み、そのまま黙った。
静かだ。
今のところ問題は何もない。
扉を閉め、鍵をかける。
廊下は薄暗く、酒と木材の匂いが混ざっていた。
さて、ここからが本番だ。
街を歩き、空気を見る。
誰が金を持っているか。
誰が困っているか。
そして、どこへ売れば一番高くなるかを探す。
◇
宿を出ると、夕方の空気が少し近づいていた。
陽はまだ高いが、通りの影が伸び始めている。
市場の喧騒は昼より柔らかくなっていた。
怒鳴り声は減り、代わりに値切る声や笑い声が増えている。パン屋の前には列ができ、酒場からは早くも酔っ払いの笑い声が漏れていた。
「案内できるか」
そう聞くと、隣を歩くリーナは少しだけ間を置いて頷いた。
「……はい」
自信がある返事ではない。
ただ、足は迷わなかった。
考えているというより、身体が覚えている歩き方だ。
市場を抜ける。
並んでいる野菜は量が少ない。葉物は萎れ気味で、干し肉の方が目立つ。
金回りは良くない。だが、物は止まっていない。
「この時間は、いつもこんな感じか」
「朝は、もっと人が多いです」
「昼は?」
「静かになります」
働く人間は朝に動く。
昼には引っ込み、夕方にまた出てくる。
貧しい街ほど、その傾向は強い。
通りを進むにつれ、金属音が聞こえ始めた。
鍛冶屋だ。
火の匂い。
焼けた鉄。
煤けた壁。
職人達の怒鳴り声。
派手さはないが、道具の手入れは悪くない。
「この辺り、職人が多いな」
「はい。父も……この近くで働いていました」
そこで初めて、リーナの口から家族の話が出た。
自然に漏れた、という感じだった。
「腕は良かったのか」
リーナは少し考える。
「……悪くなかったと思います」
「控えめだな」
「自慢するほどではないので」
言葉を盛らない。
だが、下げすぎもしない。
その話し方が妙にこの街に合っていた。
職人街を抜けると、建物は少し低くなる。
石壁が減り、木と土壁の家が増えた。
古い。だが、崩れてはいない。
屋根には修繕跡があり、壁もところどころ塗り直されている。
貧しいなりに、皆どうにか繋いでいる。
「……この辺りです」
リーナの歩幅が少しだけ狭くなった。
止まりはしない。
だが、足が重くなっているのは分かる。
「無理するな」
「大丈夫です」
返事は短い。
曲がり角を二つ抜け、人通りが減る。
通りに洗濯物が揺れ、どこかの家から煮込みの匂いが漂ってきた。
そして、リーナが止まる。
視線の先には、小さな家があった。
低い塀。
狭い空き地。
雑草は伸びているが、完全に荒れているわけではない。
窓も割れていなかった。
「……あそこです」
声は小さい。
だが、迷いはなかった。
「住んでた家か」
「はい」
家は残っている。追い出された形跡もない。
屋根も落ちていないし、扉も壊されていない。
誰かが手を入れている可能性はある。
少なくとも、捨てられてはいない。
「悪くないな」
リーナがこちらを見る。
「……悪くないですか」
「屋根がある。壁が立ってる。それだけで十分だ」
俺の基準は低い。商人としての基準だ。
家の前へ立つ。通りの音が少し遠く感じた。
誰かが洗濯物を叩く音、遠くの鍛冶場、子供の笑い声。
街は動いているのに、この場所だけ時間が止まっているみたいだった。
「家族は?」
「父と、母です」
「今もいるかは分からないか」
リーナは小さく頷く。
それ以上は聞かなかった。
今は確認だけでいい。
感情を掘る必要はない。
「今日は戻らない」
「……はい」
返事は重い。だが拒絶はない。
現実を理解している声だった。
少し距離を取り、もう一度家を見る。
悪くない。
少なくとも、“売れない案件”ではなさそうだった。
「戻るか」
踵を返す。
リーナもついてきた。
振り返らない。
見すぎると、人は余計なことを考える。
帰り道、街の喧騒がまた近づいてきた。
市場の声。
酒場の笑い声。
鍛冶場の金属音。
生活の音だ。
「なあ」
「はい」
「ここは売れる」
リーナは少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
「ああ。条件は悪くない」
慰めじゃない。
商人としての評価だ。
宿へ戻る。
扉を開けると、他の三人は静かに過ごしていた。
男二人は小声で話し、子供は相変わらず寝ている。
理想的だ。
帳面を取り出し、街の様子を書き込む。
家の状態、職人街の空気、市場の流れ。
次は話をつける番だ。
ここまで来たなら、成立させる。
それが商人の仕事だった。




