1話 売り先は故郷
荷馬車の車輪が、乾いた石を踏み潰す。
ごとり、と鈍い揺れが足元から伝わり、積み荷の木箱が小さく鳴った。街道は舗装などされていない。土は硬く踏み固められているが、ところどころ岩が露出していて、そのたびに馬が鼻を鳴らす。
昼過ぎの空気は少し湿っていた。
街道の両脇には森が続いている。ただ、山奥の原生林のような圧迫感はない。枝は高い位置で広がり、下草もある程度刈られている。人の手が入っている森だ。
遠くで鳥が鳴いた。
荷を引く馬の息遣いと、車輪の軋み。それ以外の音は少ない。
魔物の気配もない。この辺りは定期的に人が通る。危険な魔物は自然と奥へ押し込まれ、残るのは獣と、たまに人間くらいだ。
「酔ったか?」
御者台から声をかけると、荷台の奥で揺れに耐えていたリーナが顔を上げた。
「少しだけです」
そう答えたあと、小さく息を吐く。
20歳前後。薄茶の髪は肩口で雑に切り揃えられているが、不潔というほどではない。服も簡素な旅装だ。何度か繕った跡があり、袖口には古いほつれが残っている。
少なくとも、“壊れるまで使われた商品”ではない。
「吐くなら先に言え」
「……止めてから言ってください」
「それだと掃除が増える」
リーナは返事をしなかった。
代わりに、ほんの少しだけ視線を逸らす。口元もわずかに動いたが、笑うほどではない。愛想がいいわけではないが、怯えて黙り込むタイプでもなかった。
扱いやすい。
荷台の奥では、男が二人、壁にもたれて座っている。どちらも無駄に喋らない。長旅に慣れた人間の座り方だ。
子供は毛布に埋もれるように眠っていた。揺れるたびに小さな頭が上下するが、起きる気配はない。
荷馬車の中は静かだった。
奴隷を複数積んでいると、時々こういう空気になる。諦めているのか、疲れているのか、あるいは余計な関わりを避けているのか。
理由は人それぞれだ。
「もうすぐ境界だ」
その言葉に、リーナが反応した。
荷台の縁へ視線を向ける。
丘の向こうに、細い旗が見えていた。
風に揺れている布は色褪せ、端も擦り切れている。見張り塔も古い。壁には補修跡があり、白かった石は土埃で茶色くくすんでいた。
金のない土地だ。
だが、人はいる。
畑もあるし、道も死んでいない。貧しいなりに回っている場所というのは、見れば分かる。
「……もう、ですか」
「逃げるなら今だぞ」
冗談半分で言うと、リーナは即座に首を横に振った。
「逃げません」
声に迷いはなかった。
森へ入れば、一時的には隠れられる。
だが、この辺りの森は街道が近い分、人間も多い。山賊、盗人、流れ者。魔物より面倒な連中はいくらでもいる。
捕まれば、次はもっと値段が落ちる。
それくらいは理解している顔だった。
「森でやられたんだったな」
その瞬間、リーナの肩がわずかに止まった。
「……はい」
俯く。
だが、完全には顔を伏せない。
荷台へ差し込む木漏れ日が、横顔にまだらな影を落としていた。
街道のすぐ脇でも、森の中は薄暗い。木の幹が視界を遮り、音も吸う。
襲う側にとっては都合がいい。
「1人で入ったのが悪い」
「……分かっています」
声は小さい。
反論はしなかった。
指先だけが、膝の布を少し握る。
薬草採りか、薪拾いか。どうせそんなところだろう。この辺りの村は貧しい。子供でも森へ入る。
運が悪ければ、それで終わる。
「分かってるならいい。次は生き残れ」
慰める気はない。
そんな言葉に価値がある世界でもなかった。
リーナはしばらく黙っていた。
荷馬車の揺れる音だけが続く。
やがて、小さく息を吐く。
「……普通は、嫌がります」
「何をだ」
「夜」
ああ、と心の中で頷く。
夜になると、こいつは物音に敏感になる。
焚き火の爆ぜる音や、森の枝が擦れる音だけで目を覚ますことがある。騒ぎはしないが、身体が強張る。眠りも浅い。
嫌がる商人は多いだろう。
「扱いづらいって判断されたんだろ」
「……そう、です」
「俺は気にしなかった」
理由は単純だ。
安かったから。
壊れていない。逃げ癖もない。暴れもしない。
なら十分だった。
「壊れてたら買わない」
「……商品、ですか」
「商品だ」
即答する。
「俺は商人だからな」
感情を混ぜると面倒になる。
可哀想だから助ける。事情があるから特別扱いする。
そういう商売は長続きしない。
門が近づく。
槍を持った兵士が二人、気怠そうに立っていた。片方は壁に寄りかかり、もう片方は欠伸を噛み殺している。
平和な土地だ。
少なくとも、今は。
「戻れると、思いますか」
リーナがぽつりと呟いた。ジェイドは手綱を軽く引く。
馬が速度を落とし、車輪が土を削る音が低くなる。
「戻れる」
短く答える。
リーナは何も言わなかった。ただ、門を見つめている。
「……住めますか」
「それは交渉次第だ」
村に金はないだろう。
だが、労働力は欲しいはずだ。食料でも、物資でも、払えるものはある。
無償にはしない。
それだけは最初から決めていた。
「これは救済じゃない」
風が吹く。土と森の匂いが混ざり、荷馬車の幌を揺らした。
「商売だ」
少し間を置いてから、リーナが頷く。
「……はい」
門の前で荷馬車を止める。
軋む音とともに車輪が沈み、馬が低く息を吐いた。
感情は値段に乗る。
故郷に帰りたい奴隷と、働き手を欲しがる貧しい村。
今日は条件が悪くない。
ジェイドは古びた門を見上げ、小さく口の端を上げた。
悪くない取引になりそうだった。
店は持たない。
看板も掲げない。
決まった拠点もない。
その代わり、荷馬車一台と最低限の書類、それから商人としての勘だけを頼りに、国と国の間を移動している。
安く買える理由を見つけ、高く売れる相手を探し、条件が合えばそこで取引をする。
それだけの仕事だ。
善人ではない。
だが、無計画でもない。
扱うのが人間である以上、雑に扱えば価値が落ちることを知っている。
壊れた商品は売れないし、面倒を抱えた商品は長く持つほど損になる。
だから、最低限の手間は惜しまない。
それを優しさと呼ぶ者もいるし、冷酷だと言う者もいる。
ジェイド自身は、どちらでもいいと思っている。
商売として正しいかどうか。
それだけが判断基準だった。
◇
荷馬車は街道をゆっくりと進んでいた。舗装などされていない道はところどころ石が露出していて、馬の蹄がそれを踏むたびに車体が揺れるが、今さら気にするようなことでもない。この辺りの道はどこも似たようなものだ。
道の両脇には森が続いている。ただし鬱蒼としているわけではなく、枝は高く、下草もある程度刈られていて、少なくとも何かが飛び出してきそうな雰囲気はない。
魔物の気配も感じないし、獣の鳴き声も聞こえない。街道として使われている以上、この森は人の管理が入っている安全な部類だ。
「酔ったか?」
そう聞くと、荷馬車の後ろで揺れに身を任せていたリーナが、小さく首を振った。
「少しだけです」
年は二十前後。髪は手入れされていないが絡まってはいないし、顔立ちも整っている部類だ。服は簡素で、動きやすさを優先したものだが、破れや汚れは最低限に抑えられている。
少なくとも、雑に扱われてきた様子はない。
声は落ち着いている。感情が表に出にくく、こちらを見上げるときも視線は真っ直ぐで、媚びるような様子はない。
そのくせ、強気に出るわけでもなく、言われたことは一度受け止めてから返すタイプだ。
「吐いたら止める」
「……止めてから言ってください」
「それだと俺が掃除係になるだろ」
軽口を挟むと、リーナはほんの一瞬だけ口元を緩めた。笑うほどではないが、拒絶もしない。この距離感が一番扱いやすい。
後ろを振り返ると、男が二人、壁にもたれて静かに座っている。無駄口は叩かず、体力を温存するタイプだ。子供は毛布に包まれて眠っていて、道の揺れにもすっかり慣れたらしい。荷馬車の中の空気は、必要以上に荒れてはいない。
「もうすぐ境界だ」
そう言うと、リーナは視線を上げた。
「……もうですか」
丘の向こうには、領地を示す旗が見え始めている。色は褪せ、布も薄い。
金がない土地だということは一目で分かるが、それはつまり人が住んでいるということでもある。
「逃げるなら今だぞ」
「逃げません」
即答だった。声に揺れはない。
逃げた場合どうなるかを、この子はもう理解している。森に入れば身を隠すことはできるが、今度は山賊や人攫いの領域だ。魔物が出るほど深くはないが、安全とも言えない。その先にあるのは、さらに値段が下がる未来だけだ。
「森でやられたんだったな」
「……はい」
リーナは視線を落とした。俯き方は浅く、完全に顔を隠すことはしない。
街道のすぐ脇でも、森の中は暗く、木の幹が視界を切り、音も吸われやすい。襲う側にとっては、これ以上ない場所だ。
「一人で入ったのが悪い」
「……分かっています」
「分かってるならいい。次は生き残れ」
慰める気はない。この世界では、それで十分だ。
山賊に捕まり、違法な商人に流され、正規の商人に渡る。
奴隷制度そのものは合法だ。だが、何をしても許されるわけじゃない。
借金奴隷、刑罰奴隷、戦争捕虜。
国ごとに細かい違いはあっても、少なくとも“勝手に攫って売る”のは、どこでも違法だった。
それに扱いも変わる。
書類自体は揃っているが、経路が汚いというだけで扱いは一段落ちる。
後から揉める可能性がある商品を、わざわざ高く買う商人はいない。
そして面倒な商品は、安い。世の中はだいたいその法則で回っている。
夜になると、リーナは森の気配に敏感になる。遠くの物音に反応して目を覚まし、眠りが浅くなる。騒ぎ立てるわけではないが、身を強張らせる癖が抜けない。それを嫌がる商人は多いし、敬遠される理由としては十分だった。
「扱いづらいって判断された」
「……」
「俺は、そう思わなかった」
理由は単純だ。安かったから。
「壊れてたら買わない」
「……商品、ですか」
「商品だ。俺は商人だからな」
感情を挟むと、余計なことになる。この距離感が一番楽だ。
門が近づいてくる。兵士が二人、槍を持って立っているが、周囲を警戒する様子は薄い。この辺りは平和な土地らしい。
「戻れると、思いますか」
「戻れる」
そう、断言する。
「……住めますか」
「それは交渉次第だ」
金は出ないだろうが、労働と物資は出る。それで十分だ。
無償はない。それだけは譲らない。
「これは救済じゃない」
「……分かっています」
「商売だ」
「……はい」
荷馬車を止め、境界の門を見上げる。森の風と土の匂いが混ざる。
感情は値段に乗る。今日は、その条件が揃っている。
悪くない取引になりそうだ。




