7話 山へ向かう道
レイヴァルトでの準備には、結局三日かかった。
港町は朝から騒がしい。
夜明け前だというのに、魚市場側からは怒鳴り声が飛び、石畳を叩く荷車の音が絶えず響いてくる。
潮風は湿っていた。
魚と海水の匂いに混じって、炭火の煙や安酒の臭いまで流れてくる。
宿の窓を開けるたび、港町そのものが部屋へ入り込んでくるみたいだった。
保存食の補充。
馬具の交換。
街道情報の確認。
辺境側へ入るなら、街を出てから困る物を先に潰しておかなければならない。
特に山側は、壊れたから次の街で買えばいい、が通じない。
市場区画では、干し肉を巡って朝から商人同士が怒鳴り合っていた。
「その値段で買えるか!」
「嫌なら他行け!」
樽を蹴る音。
笑い声。
値切り交渉。
港町らしく魚は多いが、保存の利く肉は別だ。
最近は辺境側の流通が不安定らしく、値段も少し上がっている。
「景気悪ぃな」
荷台へ木箱を積みながら、ルードがぼそりと言った。
額には朝から汗が浮いている。
片腕でも慣れているのか、荷物の扱い自体は妙に上手かった。
「どこもそんなもんだ」
俺は縄を締め直す。
馬が鼻を鳴らし、乾いた息を吐いた。
その横で、フィンが干し肉を妙に真剣な顔で嗅いでいた。
耳が忙しく動いている。
「……腐ってる」
「少しな」
「買うの」
「焼けば食える」
フィンが露骨に顔をしかめる。
その様子を見て、ライノが吹き出した。
「商人って逞しいな」
「腹壊すよりはマシだ」
ライノは笑ったまま、荷台へ積まれた木箱を眺める。
その視線は時々、本屋の露店へ向いていた。
紙束に目が行くらしい。
ミルノは逆に、人混みへ少し怯えていた。
通行人と肩がぶつかるたび、小さく身体を揺らしている。
三日の間で、四人の空気は少し変わった。
フィンは完全に口を閉ざさなくなった。
ミルノも宿の主人相手なら短く返事をする。
ライノは荷物整理を自然に手伝うようになっている。
一番変わらなかったのはルードだ。
だが、変わらないなりに、荷馬車の車輪や馬具を無意識に確認している辺り、完全に他人事という顔でもなかった。
出発の日は珍しく晴れていた。
港から吹く風が強い。
雲の流れも速く、空気が乾いている。
街門前には、朝から人が溢れていた。
旅商人。
冒険者。
巡礼。
荷運び。
色んな連中が行き交い、門番達は半分眠そうな顔で通行証を確認している。
ラグス達は既に到着していた。
ラグスは大盾を背負い、フェルは弓の弦を張り直している。
ミレアは革袋の中身を確認していた。
薬瓶同士が小さく触れ合う音がする。
「揃ったな」
ラグスが片手を上げた。
「そっちは準備終わったのか」
「ああ」
俺は荷馬車へ視線を向ける。
「並びだけ確認する」
街道へ出れば、もう街の中みたいには動けない。
「前は俺とカイル」
ラグスが言う。
「後ろはフェル。ミレアは荷馬車横でいいな」
「問題ありません」
ミレアが頷く。
フェルは荷馬車を見ながら口笛を吹いた。
「結構積んだな」
「山越えだからな」
「遭難したくない訳だ」
「したい奴いるのか」
フェルが笑う。
その間、カイルは黙ったまま周囲を見ていた。
門の外。
空。
街道。
戦場帰りの連中は、まず逃げ道を見る。
ルードも同じだった。
「基本的に戦闘はそっちに任せる」
俺が言う。
「護衛料払ってるからな」
「当然だ」
ラグスが笑った。
「ただし、万が一はある」
俺は荷台横の布包みを開いた。
中には短剣や古い短弓、それに安物の剣が入っている。
市場近くで買った中古品だ。刃には細かい傷が多い。
新品を渡すほど余裕は無い。
「お前らも最低限、動けるかだけ確認しとく」
その瞬間、フェルが目を丸くした。
「待て」
「ん?」
「渡すのか?」
フェルが剣を指差す。
「奴隷だろ?」
「そうだな」
「いや、そうだなじゃなくて」
ラグスまで苦笑していた。
「普通、奴隷商人は武器なんか持たせねぇぞ」
「逃げられるしな」
ルードがぼそりと言う。
俺は肩をすくめた。
「山で魔物に襲われた時、“武器持たせてませんでした”じゃ困る」
「それは分かるが……」
フェルはまだ納得していない顔だ。
「おかしな奴隷商人だな、お前」
「よく言われる」
フィンは差し出された短剣をじっと見ていた。
警戒している。
というより、確認している感じだった。
「使えるか」
聞くと、フィンは少しだけ頷く。
指先で短剣を持ち上げ、重さを確かめる。
その動きは慣れていた。
「山道は?」
「動ける」
「索敵は」
「出来る」
短い返答だった。
だが、自信はあるらしい。
ライノは先に溜息を吐いた。
「次、俺だろ」
「話が早くて助かる」
ライノは苦笑する。
風が吹き、長い銀髪が揺れた。
俺が渡したのは細身の片手剣だった。
ライノはそれを受け取り、少し複雑そうな顔をする。
「剣は?」
「授業程度には」
「魔術は」
ライノの顔が少し歪む。
「使える時もある」
「暴発する時もある」
ルードがぼそりと言った。
ライノが嫌そうに顔をしかめる。
「聞こえてたのか」
「市場の檻は声響くんだよ」
ミルノには短杖を渡した。
戦うためというより、護身用に近い。
ミルノは少し戸惑いながら受け取る。
「ミルノは?」
「補助魔術と攻撃系も少し……」
声は小さい。
だが、途中で止まらなかった。
三日前よりは、明らかにマシだった。
最後にルードを見る。
ルードは渡された剣を見て、小さく笑った。
「片腕だぞ」
「知ってる」
「剣は無理だ」
「期待してない」
俺は短槍を荷台へ立て掛ける。
「必要なら使え。使わなくてもいい」
ルードは少し黙った後、その槍を右手で軽く持ち上げた。
重さを確認するみたいに。
「……山道の見方くらいは教えられる」
「それで十分だ」
門が開く。
重い音を立てながら、鉄格子がゆっくり持ち上がっていく。
街の喧騒が背中側へ流れていった。
石畳が終わり、乾いた街道が前へ伸びていた。
「行くか」
馬が歩き出す。
荷馬車の車輪が軋み、レイヴァルトの街並みが少しずつ遠ざかっていった。
◇
山道へ入る頃には、景色がかなり変わっていた。
街道は細くなり、両脇の木々も深くなる。
昼間でも薄暗い場所が増えていた。
枝葉が風に揺れるたび、木漏れ日が揺れる。
空気は冷たく、湿った土と苔の匂いが濃かった。
荷馬車の車輪が石を踏むたび、小さく揺れる。
その度に、積み荷の木箱が軋んだ。
ラグス達も無駄話を減らしている。
山へ入ってから、周囲の空気が少し変わったからだ。
出発から五日目の夕方。
野営地へ選んだのは、街道脇の少し開けた場所だった。
焚き火の煙が、夜風へ細く流れていく。
周囲では木々が揺れていた。
だが――静か過ぎる。
フィンは焚き火から少し離れた岩へ腰掛けていた。
耳だけが忙しく動いている。焚き火の光が、白寄りの髪を薄く照らしていた。
「どうした」
俺が声を掛ける。
フィンはすぐには答えなかった。
代わりに、森の奥を見続けている。
「……静か」
「夜だからじゃないのか?」
フェルが軽く言う。
フィンは首を横へ振った。その動きは小さい。
だが、迷いは無かった。
「違う」
焚き火が小さく爆ぜる。
その瞬間、カイルも顔を上げた。
視線が森へ向く。
「鳥がいない」
短い声だった。
ルードも周囲を見回す。
風が吹く。
木々が揺れる音だけが耳へ残った。
「獣も少ねぇ」
ルードが低く呟く。
「この辺、もう少し鳴くはずだ」
ラグスの表情が変わり、フェルも弓へ手を伸ばした。
ミレアは無言で焚き火を小さくする。
火が弱まり、周囲の暗闇が濃くなった。
フィンが鼻を押さえるみたいに顔をしかめた。
「匂いがする」
「何のだ」
フィンは答えない。
代わりに、森の一点をじっと見ている。
風向きが変わった。
その瞬間だった。
「……血」
空気が止まる。
カイルの手が剣の柄へ掛かった。
誰も喋らない。
森の奥は暗い。
だが、何かがいる。
それだけは全員分かっていた。
「警戒して進むぞ」
ラグスが立ち上がる。
焚き火の火が、小さく揺れた。




