37話 契約前
商会区画の通りは相変わらず忙しい。
荷車が通り、使用人が走り、商人達が怒鳴り合っている。
だが、ノアは少し静かだった。
紙束を抱えたまま歩いている。
「疲れたか」
俺が聞く。
「……ちょっと」
正直でよろしい。
帳簿側は、倉庫とは違う疲れ方をする。
ずっと見られるし、試される。
ああいう空気は、大人でも疲れる。
「まあ、初日なら上等だろ」
俺が言う。ノアは少し考える。
通りの向こうで、荷車が石畳を鳴らしていく。
ノアはその音を聞きながら、小さく言った。
「……怖かった」
「レオンか?」
頷く。
「見てた」
「商人だからな」
実際、ああいう人間ほど細かい。
言葉。
視線。
立ち方。
全部見て判断する。
ノアはしばらく黙っていた。
通りの向こうでは、保存食を積んだ荷車が港側へ向かっている。
木箱の軋む音が、石畳へ響いていた。
「でも」
ノアが小さく言う。
「追い出されなかった」
そんなことで安心する辺り、今までの環境が分かる。
「すぐ追い出すなら、そもそも呼ばん」
「……そうなの」
「ああ」
通りの端では、別の商会の使用人達が揉めていた。
荷札が違うだの、
数量が足りないだの、
そんな話だろう。
商会区画は毎日ああだ。
「ノア」
俺は前を向いたまま言う。
「ここ、気に入ったか」
ノアは少し黙った。返事まで少し時間が掛かる。
ちゃんと考えてる時の間だった。
「……分からない」
意外だった。
もっと即答するかと思っていた。
ノアは続ける。
「でも、ちゃんと仕事あるの、変な感じする」
「変?」
「今まで、いなくなっても困らない仕事ばっかだったから」
少し風が吹く。紙束の端が揺れた。
「ここ、僕がいないと怒られる人いる」
3番棚の控えを待っていた使用人の顔を思い出す。
「ああいうの、初めて」
ノアはそう言って、少しだけ商会区画を見た。
積荷。
帳簿。
怒鳴り声。
騒がしい場所だ。
だが、ノアはもう、
最初みたいに怯えた顔では見ていない。
そこへ、後ろから声が飛んだ。
「ヴァーニスト!」
振り返る。
エドガーだった。少し早歩きでこっちへ来る。
「話まとまりそうだ」
早いな。
「上がだいぶ悩んでたが、レオンが押した」
ノアの肩が少し動く。
エドガーはその反応を見ながら続けた。
「ただ、条件は付く」
「だろうな」
「正式雇用じゃなく、見習い扱いで、最初は倉庫側中心。帳簿は補助だけだ」
妥当だ。むしろかなり譲ってる。
「あと」
エドガーが少し言いにくそうな顔をする。
「奴隷契約の解除確認が必要だ」
そこか。
当然と言えば当然。
商会側としては、“奴隷を借りる”形にはしたくない。
「買い取りか?」
「そっちの方向だ」
エドガーはノアを見る。
「お前自身はどうだ」
ノアは少し黙った。
周囲では、また荷車が通っていく。
怒鳴り声も聞こえる。
ベルク商会の日常。
ノアはその音を聞きながら、小さく答えた。
「……ここで働きたい」
今度は、はっきり言った。エドガーは少し笑う。
「なら、後は商人同士の話だな」
そう言って、エドガーの視線が今度は俺へ向く。
条件。
値段。
契約。
ここから先は、俺の仕事だった。
◇
ベルク商会の応接室は、現場側よりかなり静かだった。
帳簿をめくる音も、怒鳴り声も、ここまでは届かない。
厚い扉が閉まる。
外の騒がしさが、一気に遠くなった。
「座れ」
レオン・ベルクが言う。俺は向かいへ腰掛けた。
木机は広く、安物ではない。
机の端には、乾いたインク壺と帳簿が積まれている。
商会らしい部屋だった。
ノアは部屋の隅へ立っている。
少し落ち着かなさそうだ。
まあ、当然か。
自分の話をされる場所なんだから。
レオンは帳簿を閉じる。
「単刀直入に聞く」
「ああ」
「いくらだ」
商人らしい始まりだった。俺は少し椅子へ背を預ける。
「条件次第だな」
「そっちが条件を言うのか」
「買う側だけが選べる話でもない」
レオンは少しだけ笑った。エドガーは壁際で腕を組んでいる。完全に見届け役だ。
「まず確認だ」
レオンが言う。
「ノアの所有権は完全にお前にあるな?」
「ああ、正規契約済みだ」
契約証もある。
違法商人から流れた後、市場で正式登録されている。
「年齢不明、身元不明、難民上がり」
レオンが並べる。
普通なら、かなり安い条件だ。
「だが」
レオンが続ける。
「現場評価は高い」
倉庫側。
帳簿側。
両方から話が上がっているらしい。
「見て覚える、動きも早い、余計なことを喋らない」
エドガーが鼻で笑った。
「最後のは現場だとかなり助かる」
「お前んとこが騒がしすぎるんだ」
「否定はしねぇ」
レオンは小さく息を吐く。
それから、ノアを見た。
「正直、まだ判断は難しい。帳簿側へ本格的に入れるには時間がいる」
ノアは黙って聞いている。
「だが、見込みはある」
その言葉で、ノアの指先が少しだけ動いた。
レオンは机へ指を軽く置く。
「金額を言え」
部屋が静かになる。
外では、遠くで荷車の音がしていた。
俺は少し考える。
本来なら、もっと高く吹っ掛けてもいい。
珍しい人材だ。
育てれば価値も上がる。
「金貨5枚」
エドガーの眉が少し動く。ノアもこっちを見た。
レオンは表情を変えない。
「子供奴隷としてはかなり高いな」
「帳簿側へ入れるつもりの人材なら安い」
俺は答える。
「読み書き途中で記憶はいい。既に現場にも馴染んでる。育てれば化けるぞ」
部屋が少し静かになる。
レオンは数秒考えていた。
商人の顔だった。
値段じゃなく、“先の利益”を計算している顔。
「……確かに」
レオンは小さく頷く。
「妥当な線だ」
ノアが少し驚いた顔をする。
自分の値段の話なんて、今までまともに聞いたこともなかったんだろう。
レオンは机へ指を軽く置く。
「その条件なら、こちらも1つ付ける」
「ああ」
「正式雇用へ切り替えるかは、1年後に再判断だ」
妥当だ。
商会側としても、いきなり帳簿側へ完全に入れる気はない。
「構わん」
俺は答える。
レオンは頷いた。
「では、契約条件へ入る」
そこで俺は一度、口を挟む。
「あと1つ」
レオンが視線を向ける。
「雑に扱うなら返してもらう」
数秒、部屋が静かになる。
エドガーが苦笑した。
「お前、本当に商人か?」
「商人だから言ってる。壊されたら損だ」
完全に方便だ。
だが、レオンは少しだけ笑った。
「分かった。契約条件へ入れよう」
ノアがこっちを見る。かなり珍しい顔だった。
少しだけ、安心したみたいな顔。
レオンは帳簿を開く。
羽根ペンを取る。
「では、ベルク商会側の条件を確認する」
外では、まだベルク商会の使用人達が動いている。
怒鳴り声。
荷車。
積荷。
その騒がしい音を遠くに聞きながら。
ノアは初めて、“売られる”以外の形で、誰かと契約しようとしていた。




