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36話 条件と意思

その日の作業が終わった頃には、空もだいぶ赤くなっていた。

ベルク商会の使用人達も、少しずつ片付けへ入っている。


積荷札をまとめる者。

縄を巻き直す者。

帳簿を棚へ戻す者。


昼間の慌ただしさとは違う疲労感が、倉庫側には漂っていた。


「今日はここまで!」


誰かの声が飛ぶ。

何人かが一斉に息を吐いた。

若い使用人がその場へ座り込みかけて、すぐ怒鳴られている。


「床で寝るな!」


「寝てません!」


「目閉じてたろ!」


「ちょっと休んでただけです!」


馬鹿みたいなやり取りだが、空気は悪くない。

ノアはその様子を少し離れた場所から見ていた。


紙束を抱えたまま。


「お前も座ればいいだろ」


俺が言う。


「……まだ仕事あるかも」


「今日はもう終わりだ」


ノアは少し迷ってから、木箱の端へ腰掛けた。

思ったより疲れてたらしい。


本人だけ気付いてなかった。


「坊主」


エドガーが近づいてくる。手には帳簿が一冊。


「ちょっといいか」


ノアが顔を上げ、エドガーは木箱へ軽く寄りかかった。


「話、少し進んだ」


ノアの身体が少し固くなる。


「そんな構えんな」


エドガーが苦笑する。


「まだ決定じゃない」


「……うん」


「ただ、見習い扱いなら通せそうだ」


倉庫の奥では、まだ片付けの音が続いている。


木箱を動かす音。

鍵を閉める音。

誰かの笑い声。


エドガーはその音を背に続けた。


「正式な使用人じゃない。最初は雑用も多いし、給金も安い」


かなり現実的な話だった。

だが、ノアは真面目に聞いている。


「住み込みは?」


俺が聞く。


「空き部屋はある。倉庫側の二階だが」


「飯は」


「現場組と一緒」


悪くない。


むしろ、かなり良い。

子供奴隷の売却先としては、破格寄りだ。

エドガーは少し言葉を選ぶ。


「ただ、一つ問題がある」


「身元か」


「それもある」


エドガーが頷く。


「あと、“奴隷上がりを帳簿側へ入れるのか”って話だ」


倉庫側の現場仕事なら、まだ通しやすい。

だが、帳簿は別だ。金と在庫を扱い、信用が必要になる。


「現場側は欲しがってる」


エドガーが言う。


「でも、上は慎重だ」


ノアは何も言わなかった。

さっきまでより、少しだけ表情が固い。


「まあ、当然だな」


俺が言う。


「普通は嫌がる」


エドガーは苦笑する。


「お前、もうちょっと庇えないのか」


「商人相手に綺麗事言っても仕方ないだろ」


実際そうだ。


子供。

奴隷。

身元不明。


条件だけ見れば、かなり扱いづらい。


だが。


「それでも欲しがってる時点で、十分だ」


俺が続ける。


「役に立ってる証拠だからな」


ノアは少し俯いていた。

紙束を抱える手へ、少し力が入っている。


エドガーはそんなノアを見て、小さく息を吐いた。


「まあ、まだ時間はある。すぐ追い出したりはしねぇよ」


ノアはゆっくり頷く。


その時だった。


倉庫の奥から、若い使用人の声が飛ぶ。


「主任ー!」


「今度は何だ!」


「七番倉庫、鍵閉まりません!」


エドガーが顔をしかめる。


「またかよ……」


周囲から笑いが漏れた。


「昨日蹴ったからじゃないですか?」


「蹴ってねぇ!」


「蹴ってました!」


周囲では、まだ使用人達が笑っていた。

その声を聞きながら、ノアは少しだけ笑っていた。





翌日、朝のベルク商会は、相変わらず騒がしかった。


荷車の音。

怒鳴り声。

積荷を運ぶ足音。


倉庫側では、もう朝から使用人達が走り回っている。


「港側の確認まだか!」


「今やってます!」


「先に積める分だけ出せ!」


木箱が軋む音が響く。

昨日より少し曇っているせいか、空気も重かった。

ノアは紙束を抱えながら、その横を歩いていた。


前より迷いがない。

倉庫番号も、だいぶ覚えてきている。


「坊主、3番棚の控え!」


「……これ」


「早ぇな……」


若い使用人は、そのまま自然に次の伝票を探し始めた。


「ノア」


俺が呼ぶ。

ノアが振り返る。


「今日は帳簿側行くらしいぞ」


「……帳簿?」


少し驚いた顔をする。

そこへ、奥からエドガーが出てきた。


「話だけだ。そんな構えるな」


「構えてない」


「顔に出てる」


ノアは少し視線を逸らした。

エドガーは苦笑しながら手招きする。


「来い」


商会の表側へ入る。倉庫とは空気が違った。


紙。

インク。

木机。


怒鳴り声は少ない。

代わりに、紙をめくる音と計算の声が響いている。

使用人達の服も、倉庫側より少し綺麗だった。


「うわ……」


ノアが小さく漏らす。

机が並んでいた。


帳簿。

伝票。

羽根ペン。


昨日見ていた場所だ。だが、今日は“外から見る”側じゃない。

奥の机では、年配の男が帳簿を見ていた。

昨日、エドガーと話していた男だ。


男はこっちを見る。


視線が、ノアの手元や立ち方まで見ていた。


「その子か」


「ああ」


エドガーが頷く。


「話してた坊主です」


男は帳簿を閉じた。


「レオン・ベルクだ」


ベルク商会の上役らしい。

エドガーより年上だが、顔立ちは少し似ていた。


「……ノア」


ノアが小さく頭を下げる。レオンは少しだけ頷いた。


「字は読めると聞いた」


「少しだけ」


「計算は」


ノアは黙る。そこは弱いか。

レオンは特に表情を変えなかった。


「まあ、最初から出来るとは思ってない」


机の上から、一枚の紙を取る。


「これは読めるか」


ノアが受け取る。視線が紙を追う。


薬草名。

数量。

倉庫番号。


昨日見ていた積荷札に近い。


「……南薬草、8束、7番」


レオンは小さく頷いた。


「悪くない」


周囲の使用人達も、少し気にしている。

手は動かしているが、耳は完全にこっちだ。

レオンは紙を戻させる。それから静かに言った。


「現場側がお前を欲しがる理由は分かった」


ノアは黙っている。


「だが、帳簿側は別だ。ここは“間違えました”で済まない」


周囲の空気が少し静かになる。


「荷なら積み直せる。だが、数字は違う」


ノアはその言葉を聞いていた。かなり真面目な顔で。

レオンはしばらくノアを見る。


試すみたいに、値踏みするみたいに。


それから、静かに聞いた。


「お前、ここで働きたいのか」


ノアの指先が少し動く。その質問は、たぶん初めてだった。

“売られるか”じゃない。“働きたいか”。


ノアは少し俯く。


周囲では、帳簿をめくる音だけが響いていた。


しばらくして。


ノアは小さく口を開く。


「……頑張れば。置いてくれるなら」


レオンは小さく頷いた。

その反応を見て。


ノアは初めて、少しだけ肩の力を抜いていた。

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