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35話 見習いの話

昼を過ぎる頃には、商会区画の空気も少し変わっていた。


朝ほど怒鳴り声は飛んでいない。

代わりに、荷車の出入りが増えている。


積み終えた荷。

確認待ちの木箱。

港側へ向かう馬車。


ベルク商会の裏手へ回ると、倉庫群が並んでいた。


石造りの壁。

分厚い木扉。

積み上げられた木箱。


市場側より匂いも重い。


乾燥薬草。

保存肉。

濡れた縄。

木材。


荷の匂いだった。


「こっちだ」


エドガーが歩きながら言い、ノアはその後ろをついていく。


ノアの視線は忙しかった。


倉庫番号。

積荷札。

縄の色。


一つずつ見ている。


「倉庫って、全部分けてるの」


ノアが聞く。


「ああ」


エドガーが頷く。


「保存食、紙、薬草、雑貨、混ぜると面倒だからな」


「覚えられる?」


「覚えられなきゃ死ぬほど怒鳴られる」


後ろで若い使用人が苦笑した。


「本当に怒鳴られます」


「お前は3回間違えたからな」


「2回です!」


「似たようなもんだ」


倉庫側は、表より空気が荒い。

運搬仕事が多いせいか、声も大きい。

だが、その分だけ動きは整理されていた。


木箱を運ぶ人間や記録を付ける人間など、全員やってることが違う。

ノアはそれを見ていた。かなり真面目な顔で。


「坊主」


エドガーが呼ぶ。


「これ読めるか」


積荷札を渡す。


ノアは受け取って、少し目を細めた。


「……薬草。あと、南」


「正解」


完全には読めてない。だが、文字を拾えてる。

若い使用人が感心した顔をする。


「独学でそこまで読めるの、結構すごくないですか?」


「見て覚えるタイプなんだろ」


エドガーが言う。


「商会向きだ」


ノアはまた困った顔をした。最近ずっとその顔してるな。

倉庫の奥では、別の使用人達が荷を確認していた。


その中の一人が、突然声を上げる。


「あれ?」


近くで木箱を運んでいた男達が、動きを止めた。


「どうした」


「積荷札、1枚足りません」


エドガーの眉が少し動く。


「どこのだ」


「7番倉庫の薬草です」


周囲の空気が変わった。薬草類は値段が高い。

札が無いと、積荷確認が止まる。


「さっきまであったんです!」


「探せ」


使用人達が動き出す。


机。

木箱。

棚。


だが、見つからない。ノアの視線が動いていた。


床。

縄。

荷台。


それから、倉庫の入口近くで止まる。


「……そこ」


全員が振り返る。

荷車の車輪に、札が半分巻き込まれていた。


「うわっ!」


若い使用人が慌てて回収する。

あと少しで破れるところだった。


「助かった……」


周囲が一気に息を吐く。

エドガーは腕を組んだまま、ノアを見ていた。


「本当に見てるな、お前」


ノアは札を見ていた。

褒められてるのかどうか、まだ判断できない顔だ。


「……見えたから」


「見えたからで毎回見つけられたら苦労しねぇよ」


若い使用人が笑うと、倉庫側の空気が少し緩んだ。

エドガーは数秒黙る。


それから、ぽつりと言った。


「……1回、上に話通すか」


「上?」


若い使用人が聞き返す。


「人足じゃなくて、見習い側で」


ノアの肩が小さく揺れた。

たぶん、今の言葉の意味を完全には理解してない。


だが、“ただの荷物持ち”じゃない話になっていることだけは分かったらしい。


俺はその横顔を見る。


“荷物持ち”の話じゃ、もう済まなくなってきていた。


その後日も少し傾き始めた頃、商会区画の慌ただしさも朝とは少し変わっている。


積荷を出し終えた荷車や確認待ちの帳簿、片付けを始める使用人達。忙しさは変わらない。


ただ、“締め”の空気になっていた。


「坊主、そっち置いといてくれ!」


「こっちの縄切れてるぞ!」


「帳簿まだ残ってる!」


怒鳴り声が飛ぶ。

ノアはその中を、前より迷わず動いていた。

どこへ行けば邪魔にならないか、誰が今忙しいか。

少しずつ分かってきている。


「ノア」


俺が呼び、ノアが振り返る。


「水飲んどけ」


「あ……うん」


少し疲れてるな。本人は気付いてなさそうだが。

倉庫側は歩くだけでも体力を使う。


荷車。

階段。

積荷。


子供には地味にきつい。

ノアは受け取った水を飲みながら、商会の奥を見ていた。


視線の先では、エドガーが誰かと話している。

年配の男だった。


髭混じりの黒髪、落ち着いた服装。

帳簿ではなく、指輪と靴が高い。


現場側の人間じゃない。


「……上の人?」


ノアが小さく聞く。


「たぶんな」


しばらくして、エドガーが戻ってきた。

少し疲れた顔をしている。


「ヴァーニスト」


「何だ」


「ちょっと時間あるか」


あるかと聞きながら、完全に話す流れだった。

俺は肩をすくめる。


「まあいい」


エドガーは周囲を軽く見回す。

それから少し声を落とした。


「上に話は通した」


ノアの指先が、少しだけ紙束を握り直した。


「反応は半々だ」


「そりゃそうだろ」


奴隷。

子供。

身元不明。


普通なら雇う側は嫌がる。


「ただ、現場側は欲しがってる」


エドガーはノアを見る。


「正直、助かるんだよ。見落とし減るし、覚えも早い」


ノアは黙っていた。

だが、話を聞いている顔はしている。


エドガーは続ける。


「で、一応聞く。お前、本当に売る気あるんだな?」


「条件次第だ」


「そこはブレないか」


「もちろんな」


エドガーは小さく笑った。

それから、今度はノアを見る。


「坊主」


ノアが少し顔を上げる。


「もし決まったら、ここで働くことになる」


倉庫側を指差す。


「荷運びもある、帳簿も覚える、怒鳴られる時は怒鳴られる」


後ろで若い使用人が苦笑した。


「それは本当にあります」


「うるせぇ」


エドガーが返すと、少しだけ空気が緩む。

だがその後、エドガーは真面目な顔に戻った。


「楽な仕事じゃない」


ノアは少し黙っていた。

周囲では、まだ荷車が動いている。


木箱を下ろす音。

帳簿を閉じる音。

誰かの怒鳴り声。


ベルク商会の日常だった。

ノアはその音を聞きながら、小さく聞く。


「……ここに、いていいの」


エドガーは一瞬だけ黙った。

たぶん、その質問が来ると思ってなかった。


「役に立つならな」


答えたのは俺だった。二人の視線がこっちへ向く。


「商会なんて大体そうだ。役に立つ奴は置き、立たない奴は切る」


だが、商人の世界はそんなもんだ。

ノアは少し俯く。

それから、小さく頷いた。


「……なら、頑張る」


エドガーが少し笑った。


「まだ決まってねぇよ」


周囲の使用人達も、少しだけ笑っている。

その空気を見ながら、俺は小さく息を吐いた。


ノアはもう、倉庫の音を“知らない場所の音”としては聞いていなかった。

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