33話 商人の家
市場通りを抜ける頃には、昼の日差しもだいぶ強くなっていた。
朝方に残っていた湿り気はもう消え、石畳の表面が白く光っている。
露店の数も、昼へ近づくにつれて増えていた。
焼いた肉の煙。
香辛料の匂い。
果物を積んだ荷車。
通りの熱気が、昼になって一気に濃くなる。
行き交う人間の肩がぶつかり、怒鳴り声と笑い声が混ざり合う。
市場は昼が近づくほど、街そのものが膨らんでいくみたいだった。
「腹減った」
俺が呟く。
後ろを歩いていたノアが、少しだけ顔を上げた。
「……僕も」
正直でよろしい。
通り沿いの屋台へ寄る。
鉄板の上で、薄い生地が焼かれていた。
肉と刻んだ野菜を巻いた、よくある街道飯だ。
油が落ちるたびに煙が上がり、香ばしい匂いが風に流れていく。
店主は汗だくのまま鉄板を返していた。
「2つ」
「銅貨6枚!」
威勢のいい声が返ってくる。
俺は銅貨を放る。
店主は慣れた手つきで包みを渡してきた。
熱い。
ノアは受け取った瞬間、少しだけ指を引っ込めた。
「猫舌か?」
「……熱いだけ」
言い返しながらも、包みを持つ手の位置を変えている。
屋台の横へ寄る。
通りを眺めながら食う形だ。
昼時の市場は、人の流れが止まらない。
誰かが叫び、誰かが値切り、別の誰かが怒鳴られている。
通りの端では、果物商が赤い果実を布で磨きながら客を呼び込んでいた。
ノアは包みを持ったまま、その喧騒を少し眺めていた。
「どうした」
「……商会の人達」
「ん?」
「みんな、忙しそうだった」
「あれが仕事だからな」
肉を一口齧る。
焼きたてで熱い。
香辛料が思ったより強かった。
ノアは少し考えている。
視線は市場へ向いているが、頭の中はさっきまでいた商会区画に残っている顔だった。
「ジェイドの家も?」
その質問に、少しだけ笑う。
「ああ」
包み紙を持ち替える。
向こうでは荷車が無理に曲がろうとして、店主に怒鳴られていた。
「もっとでかいけどな」
ノアがこっちを見る。
興味ある顔だった。
「そんなに?」
「ガイウェストでも上の方だ。倉庫も店も複数持ってる」
ノアが少し黙る。
想像してるんだろう。
商会区画の建物を、そのまま何倍かにしたような景色を。
「じゃあ、ずっと忙しい」
「忙しいな」
「みんな働いてる?」
「働いてる」
「ジェイドも?」
「昔はな」
ノアがまた少し考える。
屋台の煙が風で流れ、通りの向こうへ消えていった。
果物商の怒鳴り声が、また別の店の呼び込みに掻き消される。
「……何で出たの」
直球だった。
俺は少しだけ笑う。
「聞くなぁ」
「……駄目?」
「別に」
包み紙を折る。
肉汁が指についた。
「家のやり方が嫌だった」
ノアは黙って聞いていた。
途中で口を挟まない。
そういう聞き方をする。
「雑だったんだよ。人の扱いも、商売も」
言いながら、少し昔を思い出す。
倉庫は広かった。
奴隷用の檻も、いつも埋まってた。
怒鳴り声。
鎖の音。
泣き声。
湿った藁の臭いと、鉄錆びた鎖の音が混ざる。
ヴァーニスト家は大きい。
その分、流れる商品も多かった。
「親父は、“使えるなら壊れるまで使え”って考え方だった」
ノアの手が少し止まる。
包み紙を持つ指先に、僅かに力が入った。
「珍しい話じゃない」
俺は続ける。
「長持ちさせるより、回転優先の奴隷商も多い」
実際、その方が儲かる時もある。
安く仕入れて、使い潰して、また買う。
数字だけ見れば合理的だ。
「でも、俺は嫌だった」
ノアは何も言わない。
ただ聞いている。
市場の喧騒が、その沈黙を埋めていた。
遠くで荷車が木箱を崩したらしい。
怒鳴り声が飛ぶ。
「だから出て、独立した。それだけだ」
ノアは包みを持ったまま、小さく聞いた。
「……怒られなかった?」
少し笑った。
「めちゃくちゃ揉めた」
「勝った?」
「勝ってはない」
肩をすくめる。
「ただ、出てきただけだ」
実際、親父は最後まで納得してなかった。
ヴァーニストの名前を捨てる気か、と何度も言われた覚えがある。
ノアは少し黙った。
それから、小さく言う。
「……変」
「何が」
「ジェイド」
失礼だな。
「普通、もっと楽な方行く」
「楽だから続く仕事ばっかじゃない」
ノアはまだ納得してない顔をしていた。
十歳そこらに、商家の独立事情を理解しろって方が無茶か。
俺は残りを食い切る。
市場の空気は相変わらず騒がしい。
叫び声も。
匂いも。
人の流れも。
商会区画とは全部違う。
向こうが“積み上げる場所”なら、こっちは“流れ続ける場所”だった。
ノアはその通りを見ながら、小さく呟いた。
「……でも」
「ん?」
「ジェイド、商会の人達と喋る時、ちょっと楽しそうだった」
向こうで、また誰かが値段で揉めていた。
魚屋が桶の水をひっくり返し、石畳を濡らしていく。
市場は相変わらず騒がしい。
俺は思わず吹き出した。
「どこ見てんだお前」
ノアは少しだけ困った顔をする。
「見えてたから」
本当に見てるな、こいつ。
俺は苦笑しながら立ち上がった。
包み紙を丸め、近くの樽へ放り込む。
「ほら、行くぞ」
「……どこ」
「次の仕事だ」
ノアはすぐ立ち上がる。
紙束を抱え直す動きが、前よりずっと慣れていた。
人混みへ入る前に、自然と俺の半歩後ろへ下がる。
市場の流れを、もう少しずつ覚え始めている。




