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32話 残れる場所

商談が終わったのは、昼前だった。


窓の外では、雲の切れ間から差し込んだ光が石畳を白く照らしている。

朝の冷え込みはもう消え、商会区画にも昼前特有の慌ただしさが満ち始めていた。


追加分の紙束を受け取り、確認印を押す。


乾きかけのインクが、紙の上で鈍く光った。


受付の男は最後まで落ち着きなく動き回っていた。


「次は三日後に入ります」


「分かった」


「インクは多めに確保しときますね」


「ああ」


返事をしながら周囲へ目を向ける。


店の奥では、使用人達がまだ走り回っていた。


「港側の控えまだ届かないのか!」

「今確認してます!」

「先に契約書回せ!」


紙束を紐で括る音。

棚を開け閉めする音。

階段を駆け上がる足音。


商会区画は昼前が一番騒がしい。


荷が動き始める時間だからだ。


市場みたいな熱気ではない。

数字と納期に追われる音だった。


「では、また」


受付の男が頭を下げる。


その横で、主任がノアを見ていた。


まだ少し気にしている顔だった。


忙しい合間に視線だけ向けてくるあたり、本当に人手不足なんだろう。


「本当に売る時は声かけてくれ」


「値段次第だ」


主任が苦笑する。


「商人だなぁ……」


「今さらだろ」


主任は肩をすくめたが、その視線は最後までノアから離れなかった。


店を出る。


昼の日差しが思った以上に強い。


建物の中に籠もっていたインクと紙の匂いが消え、代わりに湿った石畳と荷馬車の匂いが鼻へ入ってくる。


通りでは荷車が行き交い、商人達が朝以上の声量で怒鳴り合っていた。


木箱を積む音。

馬の鼻息。

値段交渉。


街全体が、昼の速度で動いている。


ノアは紙束を抱えたまま、少し黙っていた。


歩幅はいつも通りだ。


だが、考え事をしている顔だった。


「重いか」


俺が聞く。


「大丈夫」


返事は早い。


ただ、その後また黙る。


石畳を踏む音だけが続いた。


商会区画を抜け、市場通りへ近づく。


香辛料の匂い。

焼いた肉の煙。

露店商の呼び込み。


さっきまでいた場所とは空気が違う。


露店商が果物を並べ、濡れた布で赤い林檎を磨いている。

通りの端では、魚屋が桶の水をひっくり返していた。


流れた水が石畳を走り、革靴の先を少し濡らす。


その横を通りながら、ノアがぽつりと聞いた。


「……商会って、ずっとああなの」


「ああいうのって?」


「忙しいやつ」


少し考える。


前を、荷車が軋む音を立てながら通り過ぎていった。

積まれた木箱の隙間から、乾燥薬草の匂いが流れてくる。


「場所による。でも、大体はあんな感じだ」


ノアは前を見たまま聞いていた。


抱えた紙束を落とさないよう、腕の位置を少し直す。


「……ずっと紙見てた」


「商人だからな」


「みんな、ちゃんと仕事してた」


その言い方が少し気になった。


ちゃんと。


難民集落じゃ、そういう感覚も薄かったんだろう。


その日その日で人が消える。

場所が変わる。

昨日いた奴が、次の日にはいない。


続く前提がない場所だ。


だから、“同じ仕事を続けてる人間”が珍しい。


「意外か?」


俺が聞く。


ノアは少しだけ頷いた。


「怒鳴ってたけど」


「商会は大体あんなもんだ」


近くの露店で、魚を捌く音が響いた。


銀色の鱗が跳ね、店主が包丁を乱暴に振り下ろす。


通りへ流された水が、陽の光を反射して白く揺れた。


「でも……」


ノアが少し言葉を探す。


視線は市場ではなく、抱えている紙束へ落ちていた。


「嫌な感じ、あんまりしなかった」


昼の風が通りを抜ける。


紙束の端が少し揺れた。


俺はその横顔を見ながら、少しだけ目を細める。


――なるほど。


そこか。


「少なくとも、ああいう場所はお前を追い出さなさそうだ」


ノアが顔を上げる。


「……僕でも?」


小さい声だった。


周囲は相変わらず騒がしい。


果物屋が値段を叫び、子供達が走り回っている。


だが、ノアの声だけは妙に静かだった。


俺は少し笑う。


「少なくとも、今日の連中は欲しがってた」


ノアは抱えていた紙束を見る。


その視線が、少しだけ迷う。


それから、小さく呟いた。


「……変なの」


「何が」


「今まで、邪魔って言われる方が多かったから」


通りの向こうで、子供達が駆け抜けていく。

露店商が「走るな!」と怒鳴る声が飛んだ。


だが、ノアはそっちを見ていない。


紙束を見たまま歩いている。


俺は前を向いたまま、小さく息を吐いた。


難民。

孤児。

子供奴隷。


今までの扱いを考えれば、そっちの方が普通なんだろう。


「まあ、場所次第だな」


俺が言う。


「合う場所なら、自然と仕事は回ってくる」


ノアは少し考えていた。


歩きながら、抱えた紙束の位置をまた直す。


崩れないように。

落とさないように。


もう半分無意識なんだろう。


その顔は、前より迷いが少ない。


市場通りへ戻る。


騒がしい。

臭い。

人が多い。


荷車が横を抜け、誰かの怒鳴り声が飛ぶ。


だが、その喧騒の向こう。


石造りの商会区画が、小さく見えていた。


ノアは一度だけ、そっちを振り返る。


ほんの短い視線だったが。


あの静かな場所の空気を、たぶんもう覚えている。

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