31話 向いている場所
受付の男が戻ってきたのは、その少し後だった。
紙束を抱えたまま、人を避けるように通路を抜けてくる。
肩には薄くインク汚れがついていた。
「お待たせしました」
抱えていた書類を、机へ慌ただしく広げる。
紙。
印章。
インク壺。
商会区画の机は、どこも似たような景色になる。
違うのは扱う数字くらいだ。
俺は椅子へ腰を下ろした。
木製の椅子は頑丈だが硬い。
長居する前提の家具じゃない。
ノアはその後ろへ下がる。
人の動線を邪魔しない位置を選んでいた。
「紙はこの量で?」
受付の男が確認する。
「ああ。あとインクも追加」
「黒だけで?」
「今はそれでいい」
男は手早く紙へ書き込んでいく。
羽ペンが走る音が、机の上で小さく続いていた。
慣れてる動きだった。
書きながら、別の使用人へ指示まで飛ばしている。
「三番棚の契約書持ってきて!」
「港側の控えまだ!?」
「先に印章確認!」
店の奥では、別の商談も同時に動いていた。
木箱を運ぶ音。
紙をめくる音。
誰かが階段を駆け上がる足音。
市場とは違う忙しさだ。
怒鳴っているのに、誰も感情で動いていない。
全部、“遅れるな”の声だった。
「……すごい」
後ろで、ノアが小さく呟く。
「何が」
「みんな、覚えてる」
受付の男が吹き出した。
「いや、覚えてないですよ。書いてるだけです」
机へ積まれた紙束を軽く叩く。
「こっち頼りです」
ノアは少し黙る。
たぶん、その感覚がまだ不思議なんだろう。
忘れる前提で動く。
だから、記録する。
商人側からすれば当たり前だ。
男は紙を揃えながら続ける。
「逆に、覚えすぎると危ないんですよね」
「何で?」
ノアが聞く。
「人間、間違えますから」
男が苦笑する。
「覚えてるつもりで失敗する。だから書くんです」
言いながら、机の隅に置かれた古い帳簿を顎で示した。
表紙は擦れ、角が丸くなっている。
何年も使われてきたんだろう。
「こっちは裏切らないんで」
ノアは、その帳簿を見ていた。
真面目な顔だった。
受付の男はそこで、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば」
視線がノアへ向く。
「君、字はどこで覚えたの?」
ノアの肩が、わずかに止まる。
「……少しだけ」
「誰かに教わった?」
すぐには返事が来なかった。
代わりに、視線が下へ落ちる。
指先が服の裾を少し掴んでいた。
「あー、ごめんごめん」
男が慌てて手を振る。
「別に深い意味じゃなくて」
「難民の集まりだと、珍しいからな」
俺が横から言う。
男は「ああ」と納得した顔をした。
「確かに」
ノアは小さく息を吐く。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けていた。
男は空気を変えるように、別の紙を取り出す。
「これ、確認お願いします」
俺は紙へ目を通した。
運送費。
補充品。
到着予定。
数字に問題はない。
「これでいい」
「ありがとうございます」
男は書類をまとめ始める。
その途中。
「あ」
小さく声を漏らした。
視線が机へ落ちる。
「……まず」
「どうした」
「控え、一枚足りない」
周囲が少し慌ただしくなる。
「あれ? さっきここに――」
男が紙束をめくる。
机を見る。
棚を見る。
焦り始めたのが分かる。
店の奥では、別の使用人が「契約書どこだ!?」と怒鳴っていた。
忙しい時間帯だ。
一枚消えるだけで空気が変わる。
ノアの視線が動く。
机。
床。
棚。
それから、入口近くの木箱へ向いた。
「……あそこ」
男が振り返る。
木箱の隙間に、1枚だけ紙が挟まっていた。
「あっ……!」
慌てて回収する。
どうやら運ぶ途中で滑り込んだらしい。
男は紙を確認し、安堵したように息を吐いた。
「助かった……」
額を押さえる。
「これ無くしたら怒られるやつだ」
ノアは何も言わない。
また、“見えていただけ”なんだろう。
男は紙を抱えたまま苦笑する。
「本当に向いてますねぇ、こういう仕事」
その時だった。
「何の話だ」
奥から声が飛ぶ。
振り返る。
30代後半くらいの男が、書類束を抱えたまま歩いてきた。
目の下には薄く隈がある。
服装は整っているが、袖にはインク染み。
忙しい人間の顔だった。
「主任」
受付の男が言う。
「この子ですよ」
「子供?」
「でも、かなり見てるんです」
主任と呼ばれた男の視線が、ノアへ向く。
値踏みというより、確認する目だった。
「へぇ」
ノアの身体が少し固くなる。
主任は机へ書類を置いた。
紙束が重たい音を立てる。
「なら、これ分かるか」
差し出されたのは、小さな伝票束だった。
棚番号と商品名が並んでいる。
「五番棚の控えと数が合わん。どこズレたか探してる」
ノアは少し迷った後、伝票を見る。
視線が走る。
紙。
数字。
棚番号。
主任は腕を組んだまま、その様子を見ていた。
店の奥では、まだ怒鳴り声が飛んでいる。
「港側まだ終わってないのか!?」
「今やってます!」
誰も止まらない。
忙しい。
だから、本当に人手が足りないんだろう。
ノアは数秒で1枚抜いた。
「……これ」
「何だ?」
「棚番号、違う」
主任が伝票を見る。
それから、小さく眉を動かした。
「あ」
受付の男も覗き込む。
「本当だ、6番になってる」
主任が小さく息を吐いた。
「だから数がズレたのか……」
ノアは紙を戻す。
それだけだった。
だが、主任はしばらく黙ってノアを見ていた。
忙しい商会の空気の中で、その視線だけが妙に静かだった。
「……なるほどな」
受付の男が笑う。
「でしょ?」
主任は数秒考え、それから俺を見る。
「その子、今売る気あるか?」
直球だった。
ノアの肩が小さく揺れる。
指先が服の裾を握った。
俺は椅子へ深くもたれた。
「で、いくらなら出す」
主任と受付の男が少し笑う。
「即値段ですか」
「商人だからな」
主任は苦笑しながら首を振った。
「いや、まだそこまでじゃない。ただ……」
視線がノアへ向く。
商会の空気を見ている目だった。
「育てれば、かなり化けそうだ」
店の奥では、誰かがまた帳簿を閉じる音を立てていた。
忙しない空気の中で、ノアだけが静かに立っている。
俺はその横顔を見ながら、小さく息を吐く。
――値段、また上がりそうだな。




