30話 小さな役割
翌朝の空はよく晴れていた。
昨日まで降っていた雨が嘘みたいに、雲一つない。
窓から差し込む朝日が、机の上へ細長く伸びている。
外では、荷車が石畳を鳴らしていた。
乾き始めた通りを、商人達が忙しなく行き交っている。
朝の市場特有の、慌ただしい音だった。
木箱を積む音。
馬の鼻息。
遠くで怒鳴る店主の声。
商人の街は朝が早い。
俺は椅子へ座ったまま帳簿を閉じる。
昨夜書き足したインクは、もう乾いていた。
ページを軽く指で撫で、滲みがないことを確認する。
問題ない。
向かいでは、ノアが荷物をまとめていた。
昨日整理したばかりなのに、また位置を確認している。置く順番まで決めているらしい。
荷物を並べ、一歩下がって見直し、また少し位置を変える。
「崩れてないぞ」
俺が言う。
ノアの手が少し止まった。
「……確認」
「分かってる」
もう無意識なんだろう。
整理してないと落ち着かない顔をしていた。
しばらくして、宿の主人が朝食を運んでくる。
焼いたパンと薄いスープ、それから干し肉。
旅人向けの簡単な朝食だ。
皿を置いた瞬間、焼けた小麦の匂いが小さく広がった。
「今日は出るのかい」
「ああ」
「坊主も?」
主人がノアを見る。
ノアはすぐ小さく頷いた。
「……行きます」
返事が少し早い。
もう同行するつもりでいたんだろう。
主人は面白そうに笑った。
「完全に助手だねぇ」
「荷物持ちだ」
「便利な言い換えだ」
俺はパンをちぎる。
表面は少し硬いが、中はまだ温かかった。
窓の外では、通りを掃除する音が聞こえている。
雨の後は泥が残る。
朝から動く人間も多い。
「今日は商会区画だ」
俺が言う。
ノアが顔を上げた。
「昨日のところ?」
「別のとこだ。紙とインクの補充。あと、運送関係」
ノアは小さく頷く。
もう、“どんな場所か”を考えている顔だった。
食事を終え、宿を出る。
朝の空気はまだ少し冷えていた。
昨日濡れていた石畳も、かなり乾いている。
市場通りには、開店準備中の店が並んでいた。
街が少しずつ動き始めている。
焼き立てのパンの匂いが風に混ざり、その隣では魚屋が朝から客と揉めていた。
「高ぇって言ってんだろ!」
「雨だったんだよ、仕方ねぇだろ!」
いつもの朝だ。
ノアは俺の半歩後ろを歩いていた。
前より周囲を見る量が減っている。
街へ慣れ始めている証拠だった。
「迷わんな」
俺が言う。
「……道、覚えた」
「全部か」
「よく通るところだけ」
そこはちゃんとしてる。
適当に頷かない。
商会区画へ入る。
市場側より静かだ。
だが、人の動きは速い。
使用人達が紙束を抱えて行き交い、商人達は朝から数字の話を飛ばしている。
「港側の在庫は!?」
「契約書まだか!」
「先に確認回せ!」
飛んでいるのは仕事の声だ。市場みたいな荒い騒がしさじゃない。数字と納期の音だった。
ノアはその空気を見ていた。
昨日より視線が落ち着いている。
何が動いている場所なのか、少し分かってきたらしい。
昨日とは別の商会へ入る。
入口近くには積み上がった木箱。
壁際には帳簿棚。
乾いたインクと紙の匂いが漂っていた。
受付の若い男が、こっちを見る。
「いらっしゃいませ」
軽く頭を下げる。
「ああ」
「本日は?」
「紙と、運送の確認」
男は慣れた様子で頷いた。
だが、その視線は途中でノアへ向く。
「その子も一緒で?」
「荷物持ちだ」
「助かりますよね、そういう子」
ノアは少しだけ視線を逸らした。
男は苦笑しながら奥へ向かう。
「少し待ってください」
店内は慌ただしかった。
帳簿を抱えた使用人達が、狭い通路を忙しなく行き交っている。
1人の若い使用人が、机の前で紙束を何度も見返していた。
「違う……数が合わない……」
小さい声だった。
だが、かなり焦ってる。
指先が何度も紙をめくり、順番を確認している。
ノアの視線がそっちへ向いた。
気になってるのが分かる。
俺は何も言わない。
ノアは少しだけ迷う顔をした。
出るべきか、黙るべきか。
その間が、ほんの一瞬だけあった。
それから、静かに近づいていく。
「……これ」
使用人が顔を上げる。
ノアは机の端を指差した。
「1枚、裏」
「え?」
紙をめくる。
下から1枚、ぴたりと張り付いていた書類が出てきた。
「あっ」
若い使用人が固まる。
ノアはそれ以上何も言わなかった。
見えていただけなんだろう。
使用人は慌てて紙を揃える。
「た、助かった……」
ノアは小さく頭を下げ、そのまま戻ってくる。
歩幅まで静かだった。
「勝手に動くな」
俺が言う。
ノアが少し止まった。
「……ごめんなさい」
「いや、別に怒ってない」
むしろ早い。
見つけるのが。
受付の男が戻ってきた時には、若い使用人がまだノアを見ていた。
「あれ?」
男が首を傾げる。
「何かありました?」
「いや……」
使用人がノアを見る。
「この子、見つけてくれて」
男が少し笑った。
「よく見てるんですねぇ」
ノアはまた困った顔をする。
褒められる空気が、本当に苦手らしい。
肩が少しだけ縮こまっていた。
俺はその横顔を見る。
帳簿。
整理。
紙。
商会側の連中が気にする理由も、少し分かってきた。
目立つ才能じゃない。
だが、こういう場所では。
案外、1番長く残る類の能力かもしれなかった。




