27話 街道商人
店の中は、少しずつ客が減り始めていた。
夕食時を過ぎた商人達が、1人、また1人と席を立っていく。椅子を引く音が床に低く響き、給仕が空いた皿を手早く重ねて運んでいた。
代わりに、夜を越すつもりの連中が酒を追加し始める。
店内の空気も、少し緩んできた。
低く抑えられていた会話が、少しだけ雑になる。帳簿を閉じる音、杯を置く音、誰かが小さく笑う声。
商談の店にも、夜の顔はあるらしい。
ガレスは椅子へ深く座り直した。
「北側は今、かなり荒れてる」
酒を揺らしながら言う。
琥珀色の液体が、ランプの光を受けて小さく揺れた。
「難民か」
「それもある」
ガレスは頷く。
「あと流民だ。村ごと消えた場所も増えてる」
「魔物か」
「盗賊も」
鼻で笑う。
「戦争が終わると、今度は職無しが増える。傭兵崩れなんか、特に面倒だ」
街道商人らしい話だった。
国の情勢より、まず道が安全かどうかを見る。
商人にとって重要なのは、正義でも政治でもない。
荷が届くかどうかだ。
ガレスは机の上へ地図を広げた。
かなり使い込まれている。
端は擦れ、折り目には薄く汚れが残っていた。何度も開き、何度も閉じてきた地図だ。
「ここ」
指が国境沿いを叩く。
「先月までは通れたが、今は怪しい」
「検問か」
「いや、盗賊」
ガレスが肩をすくめる。
「崩れた傭兵団の残党だろうな。荷を奪うだけならまだいいが、最近は人も持っていく」
「最悪だな」
「最悪だから金になる」
笑いながら言うあたり、完全に商人だ。
ノアが地図を見ていた。
国境線。
街道。
川。
宿場町の印。
視線が静かに動いている。
「分かるのか?」
俺が聞く。
ノアは少し迷ってから頷いた。
「道くらいなら」
「読めるのか」
「少しだけ」
ガレスが面白そうに笑った。
「便利だな、本当に」
ノアはまた木杯を持ち直した。
完全に癖になっている。
居心地が悪い時、こいつは手元の物を持ち直す。
ガレスはその様子を見ながら、ふと俺へ視線を向けた。
「最初は、もっと荒れると思ってたんだがな」
「何が」
「お前だよ」
ガレスが笑う。
「ヴァーニストの坊ちゃんの独立なんて、絶対揉めると思ってた」
「揉めてはいる」
「違う違う」
手を振る。
「商売の話だ」
ガレスは酒を飲み、杯を机へ戻した。
「大商家の息子ってのは、大体2種類だ。親の真似をする奴か、反発して潰れる奴」
「で、俺は?」
「まだ分からん」
即答だった。
だが、その目は笑っている。
「ただ」
ガレスは机へ肘をついた。
「商品を見る目は悪くない」
視線が、少しだけノアへ向いた。
ノアは気付いたらしく、小さく身体を固くする。
「そいつもそうだ」
ガレスが続ける。
「普通なら、子供奴隷なんざ荷物扱いで終わる」
「実際、安かった」
「だろうな」
ガレスが笑う。
「だが、お前はちゃんと見てる」
ノアは黙っていた。
だが、話は聞いている。
たぶん、一言も逃していない。
店の奥では、給仕が皿を下げていた。
窓の外を、雨上がりの風が抜ける。濡れた石畳が夜の灯りをぼやけて映し、通りを行く荷車の影がゆっくり流れていった。
「商人ってのはな」
ガレスがぽつりと言う。
「物を見る仕事じゃない」
酒を置く。
小さく音が鳴った。
「価値を見る仕事だ」
店の中の声が、少し遠く聞こえた。
ノアは静かにガレスを見ている。
「武器も、保存食もそうだ。そして奴隷もな」
ガレスは薄く笑う。
「高い物に価値があるんじゃない。価値があるから高くなる」
俺は小さく息を吐いた。
「商人らしいな」
「街道を20年走ると、嫌でもそうなる」
ガレスは窓の外を見る。
遠くで荷車の音がした。
「逆に言えば」
ガレスが続ける。
「価値を見抜けない商人は、そのうち消える」
静かな声だった。
だが、重みはある。
街道商人は、命を賭けて移動している。見る目が無い奴から消える、というのは比喩じゃない。
本当に消える。
荷ごと。
名前ごと。
道の途中で。
ガレスはそこで、ふとノアを見る。
「お前、自分が何に向いてると思う」
突然の質問だった。
ノアが少し止まる。
店の音が遠くなる。
給仕の足音。
皿の音。
誰かの笑い声。
その全部の中で、ノアだけが静かだった。
「……分からない」
小さい声だった。
ガレスは笑わない。
「まあ、普通はそうだ」
ノアは少しだけ俯く。
木杯を持つ手に、わずかに力が入っていた。
俺はその横顔を見る。
難民集落。
違法商人。
奴隷市場。
向いてることなんて考える前に、生きるだけで終わる。
そういう場所を通ってきた子供だ。
ガレスは椅子へもたれ直した。
「なら、探せばいい」
軽い言い方だった。
だが、不思議と適当には聞こえない。
「商人も同じだ。最初から上手くやれる奴なんて、そういない」
ランプの火が揺れる。
机の上の地図へ、濃い影が落ちた。
ノアは何も言わなかった。
ただ、小さく頷いていた。
その指は、もう木杯を強く握っていなかった。




