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26話 商家の空気

その日の夕方。


雨上がりの街には、まだ湿った空気が残っていた。


石畳の隙間には細く水が溜まり、夕焼けをぼんやり映している。通りを走る荷車が車輪でその水を跳ね上げ、脇を歩く旅人が慌てて身を引いた。


昼間ほどの喧騒はない。


だが、街はまだ働いている。


露店を畳む商人。

売れ残りを値切る客。

酒場へ流れていく冒険者達。


湿った風の中に、1日の終わりへ向かう街の音が混ざっていた。


俺達は通り沿いの店へ入る。


泊まるためじゃない。


取引相手との待ち合わせだ。


2階建ての、地味な店だった。


看板は小さい。

外壁も派手じゃない。


だが、入口の扉だけは妙に綺麗だった。


蝶番の軋みもなく、取っ手にも無駄な傷がない。


商人向けの店は、こういうところで分かる。


壊れない。

汚れない。

騒がしくならない。


冒険者向けの酒場とは、空気そのものが違った。


扉を開ける。


暖かい空気が流れてきた。


店内には薄く香草茶の匂いが漂い、奥ではランプの火が静かに揺れている。


低い声が飛び交っていた。


「北側の検問が増えた」


「保存食は今月また上がる」


「薬草はルーマ側が止まってるらしい」


聞こえてくるのは、金と物流の話ばかりだ。


商人の店では、会話そのものが商品になる。


誰がどこへ行くか。

何が足りないか。

どこの街が危ないか。


そういう情報が、そのまま金になる。


「静かだ」


後ろで、ノアが小さく言った。


店の空気を見ている。


「冒険者の店じゃないからな」


俺は奥の席へ向かった。


床板は軋まず、椅子も頑丈だった。


乱暴に扱われる前提じゃない。


商人向けの店は、大体こういう造りになる。


ノアは椅子へ浅く腰掛けた。


背筋が妙に真っ直ぐだ。


周囲を見ている。


だが、前みたいに露骨じゃない。


視線を動かしすぎると不自然だと、もう覚えている。


給仕の女が水を置く。


ノアは自然に頭を下げた。


「ありがとうございます」


女が少しだけ目を瞬かせた。


子供の奴隷にしては、妙に礼儀がいい。


そういう顔だった。


俺は小さく笑う。


「馴染むな、お前」


ノアがこっちを見る。


「……何に」


「こういう空気」


店内へ視線を向ける。


静かな会話。

帳簿。

計算。

値段交渉。


武器も怒鳴り声もない場所だ。


ノアは少しだけ考えた。


それから、小さく答える。


「静かな方が、楽」


「怒鳴られないからか」


ノアは否定しなかった。


木杯を両手で持ち直し、視線だけを少し下げる。


たぶん、それが理由なんだろう。


その時だった。


奥の席から声が飛ぶ。


「……ヴァーニスト?」


振り向く。

窓際の席に、灰色の短髪の男が椅子へ深く座っていた。


痩せ型。


鋭い目つき。


だが、口元だけは薄く笑っている。


服装は地味だった。


高級ではないが、布の質がいい。


袖も靴も汚れていない。


長く街道を回っている商人特有の、“壊れない格好”だった。


「まさか本当に来るとはな」


男が笑う。


「ガレス・ハウゼンだ」


「知ってる」


地方じゃそれなりに名前を聞く。


街道商人。


保存食、薬草、武具、雑貨。


利益が出る物なら大体扱う。国境沿いまで動くタイプだ。情報にも強い。


「いやぁ、驚いたぞ」


ガレスが肩をすくめる。


「ヴァーニストの坊ちゃんが、こんな地方都市まで来てるとは思わなかった」


「坊ちゃんはやめろ」


席へ座る。

ガレスは薄く笑ったまま酒を揺らした。


「ゴイル・ヴァーニストの息子だろ? ガイウェストじゃ有名だ」


「親父の話をしに来たなら帰るぞ」


「はは、手厳しいね」


面白そうに笑う。


敵意はない。ただ、人を観察している。

ノアへ視線が向く。


一瞬。


それだけで終わる。だが、ちゃんと見ている。


「奴隷の連れ付きか」


「荷物持ちだ」


「便利そうだな」


即答だった。ノアの肩が少しだけ揺れる。

ガレスは苦笑した。


「警戒するな。別に取らん」


「高く買い取るなら考える」


俺が言うと、ガレスが吹き出した。


「最初は道楽息子の独立かと思ってたが……案外ちゃんと商人やってるらしいな」


「誰情報だ」


「街道商人を舐めるなよ?」


ガレスは酒を飲む。


「商人の話は広がる。特にガイウェストでも名高い、ヴァーニストの名前ならな」


しばらくして、給仕が酒を運んできた。


薄い琥珀色。商談向けの軽い酒だ。

俺は杯を持つが、仕事中に酔う気はない。

ガレスは慣れた様子で机へ肘をついた。


「で、今日は?」


「運送ルート」


俺は紙を机へ置く。


国境側の流れ。

最近の検問。

荷の値段。


机の上へ、数字と地名が並ぶ。直ぐに商人同士の話になる。


ノアは黙って座っていた。だが、完全には聞き流していない。

時々視線が紙へ向き、数字を見ている。


ガレスも途中で気付いたらしい。


「その子、字を読むのか」


「少しな」


「へぇ」


ガレスの目が細くなる。


人を見る目だ。


値踏みじゃない。


観察だ。


「名前は」


ノアが一瞬こっちを見る。


許可を待っている。


「ノアだ」


俺が答える。


「僕です」


少し遅れて、ノアが頭を下げた。


ガレスは小さく笑う。


「礼儀がいいな」


「静かなだけだ」


「商家は静かな方が助かる」


ノアの視線が少し動く。


またその言葉だった。


商家向き、使用人向き。


最近、少しずつ増えている。


ガレスは酒を揺らしながら言う。


「うちも若いのが足りん」


「どこもだろ」


「戦争で減った」


ガレスは肩をすくめる。


「生き残っても、冒険者になる。街道商や商会仕事は地味だからな」


窓の外では、荷車が石畳を鳴らして通り過ぎていく。


遠くで鐘の音が鳴った。


店内では、誰かが帳簿を閉じる乾いた音がする。


一日の終わりが近い。


ガレスはそこで、ふとノアを見る。


「計算はできるか?」


ノアは少し考えた。


「簡単なのなら」


「銀貨7枚を4回払ったら?」


「28枚」


即答だった。


ガレスが少し眉を上げる。


「銅貨にすると」


「……2800」


今度は少し間があった。


だが、ちゃんと答えた。


ガレスは小さく笑う。


「本当に便利そうだな」


ノアは返事をしない。


代わりに、水の入った木杯を少し持ち直した。


居心地が悪い時の癖だ。


指先だけが、少し落ち着かなく動いている。


俺はその横顔を見る。


静かな店や低い声、数字の並ぶ机。こいつは、こういう場所に妙に馴染む。


ガレスも、それを見ている。


商人の目だった。


――なるほど。


俺は小さく息を吐く。


やっぱり、方向は合ってる。


そんな気がしていた。

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