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25話 覚えている子供

雨が上がったのは、翌日の昼前だった。


空を覆っていた灰色の雲が少しずつ流れ、切れ間から差し込んだ光が濡れた石畳を白く照らしている。


街は昨日より騒がしかった。


雨で足止めされていた商人達が、一斉に動き始めたからだ。


荷車。

怒鳴り声。

値段交渉。

軒先で濡れた布を絞る音。


雨上がりの市場は、いつも少し荒い。


水気を含んだ空気に、泥と香辛料と焼き肉の匂いが混ざっていた。


俺は通りを歩きながら、小さく息を吐く。


「人、多いな」


後ろからノアの声がした。


「昨日動けなかった連中が出てきた」


「……なるほど」


ノアは周囲を見ていた。


視線が、人の流れを追っている。


昨日より目の動きが少ないのは、街を覚え始めているからだろう。


歩きながら、自然に露店を避けている。


人が詰まる場所も、荷車が曲がる位置も、もう何となく読めているらしい。


「迷わなくなったな」


俺が言う。


ノアは少し考えてから答えた。


「目印、増えたから」


「全部覚えてるのか」


「全部は無理」


即答だった。


そこはちゃんとしてる。


「でも、人が多い場所は分かる」


「何で」


「音」


短い返事だった。


確かに、混む場所は音が変わる。そして、人が集まる場所ほど、音が重なる。

難民育ちの人間らしい覚え方だ。


市場を抜け、昨日より少し奥へ入る。


商会区画との境目あたり。


露店より、店構えのしっかりした建物が増えていた。濡れた石壁には雨水がまだ残り、軒先からは細く雫が落ちている。


「ジェイドさん」


不意に、後ろから声が飛んだ。


振り返る。


昨日の商会の受付だった。


若い男だ。


紙束を抱えたまま、軽く頭を下げる。


「昨日はどうも」


「ああ」


男の視線が、自然にノアへ向く。


「昨日の子ですよね」


ノアの身体が少しだけ止まった。


分かりやすい。


「帳簿覚えてた子」


男が苦笑する。


「うちの書記が驚いてました」


ノアは視線を逸らした。


褒められる空気になると、本当に弱い。耳だけ少し赤い。


「別に大したことじゃない」


俺は言う。


「いや、普通はあそこまで記憶に残りませんよ」


男は笑いながら、抱えていた紙束を持ち直した。


その瞬間、ノアの視線が下へ落ちる。


「……右、ずれてる」


「え?」


次の瞬間、紙束の端が滑った。

男が慌てて押さえる。


「あっぶな……!」


紙が数枚、危うく落ちかける。


ノアは何も言わない。


ただ見えていただけらしい。


男は苦笑した。


「本当に見てるんですね」


「癖だ」


俺が代わりに答え、そのまま別れる。


男は去り際にもう一度ノアを見た。


珍しいものを見る目だったが、余計なことは言わなかった。

ノアは歩きながら、小さく聞いてきた。


「……変だった」


「何が」


「覚えてるの」


少し考える。


通りの向こうでは、魚屋が朝から怒鳴っている。濡れた木箱を蹴飛ばし、助手へ文句を飛ばしていた。


「便利ではある」


「便利」


ノアが言葉を繰り返す。


「商人は便利な物が好きだ」


「ジェイドも?」


「俺は特にな」


そう答えると、ノアは少し黙った。


何か考えている顔だった。


通りを曲がる。


小さな商店の前で、店主が怒鳴っていた。


「だから違う! 在庫表は昨日直した!」


奥では若い使用人が慌てている。


どうやら紙束をひっくり返したらしい。


床には書類が散乱していた。


濡れた靴跡までついている。


「あーあ……」


店主が頭を抱える。


ノアの足が止まった。


視線が紙へ向く。順番を見ている。

俺は少し横目で見る。


「行くぞ」


そう言ったが。


ノアは少しだけ迷う顔をした。


助けるべきか。

出ないべきか。


その間で止まっている顔だった。


「……行ってこい」


俺が言う。


ノアが顔を上げた。


「でも」


「お前、気になるんだろ」


数秒止まる。


それから、小さく頷いた。


ノアは散らばった紙の前へしゃがみ込む。


視線が走る。


紙。

番号。

印。


1枚ずつ見ていく。


早い。


だが雑じゃない。店主が怪訝そうに見下ろした。


「なんだ坊主?」


「これ、順番違う」


ノアが小さく言う。


1枚抜く。


さらに2枚並べ替える。


若い使用人が目を丸くした。


「え、なんで分かるんだ?」


「印、違うから」


言われて見ると、端に小さな記号がある。

整理用だろう。店主が紙を見直す。


「あ……本当だ」


ノアはそれ以上喋らなかった。


必要な場所へ戻しただけ。


そんな顔をしている。


店主が感心したように紙を見る。


「……助かった」


ノアは小さく頭を下げた。


それだけだった。


礼を言われても、どう返していいか分からない顔だ。

若い使用人は、まだ半分呆然としている。


「全部見えてたのか……?」


ノアは答えない。


ただ、床へ落ちた最後の1枚を拾い、静かに重ねただけだった。


俺はその横顔を見る。


崩れた紙。

順番。

人の動き。


そういうものを、こいつは自然に見ている。


意識してやっているわけじゃない。


呼吸みたいに拾っている。


――なるほど。


俺は小さく息を吐いた。


売り先、少し考え直すか。

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