24話 同行と記憶
翌朝、街は少し曇っていた。
空を覆う灰色の雲のせいで、昼前だというのに光が弱い。宿の前では雨を警戒した商人達が、幌の紐をきつく結び直している。
朝の街は、天気が悪い日ほど忙しい。
俺は宿のテーブルで帳簿を閉じた。
今日確認する予定を書き終え、インクを乾かす。
市場。
商会。
雑貨屋。
細かい用事ばかりだ。だが、こういう積み重ねが旅商人の仕事になる。
「また出るのかい」
宿の主人が皿を運びながら聞いた。
「ああ」
「働くねぇ」
「働かないと宿代が消える」
「お前さんの場合、十分払えてるだろ」
「金は減る」
それだけで理由になる。主人は呆れたように笑った。
その横では、ノアが食器を片付けていた。
頼まれているわけじゃない。
空いた皿を見つけると、自然に手が動いている。気付けば宿の動線も覚えたらしく、客の背後を抜ける時もぶつからない。
「おい」
声をかけると、ノアがすぐ振り向いた。
「……はい」
「今日は来い」
数秒、動きが止まる。
自分に向けられた言葉だと思っていなかったんだろう。
「僕?」
「他に誰がいる」
ノアは少しだけ目を丸くした。
「荷物持ちだ」
俺は続ける。
「あと人手」
「……分かった」
返事は小さい。だが、いつもより少しだけ早かった。
宿の主人が面白そうに笑う。
「初仕事か?」
「大したもんじゃない」
「でも嬉しそうだぞ」
ノアはすぐ顔を伏せた。
分かりやすい。
外へ出ると、空気は湿っていた。
石畳には昨夜の雨が薄く残り、歩くたび靴裏が水を弾く。通りの端では、店先の布を畳んでいた女が空を見上げ、嫌そうにため息を吐いていた。
ノアは俺の半歩後ろを歩いている。距離感が妙に正確だった。
近すぎず、離れすぎない。
教えたわけじゃない。
たぶん無意識なんだろう。
市場通りへ入る。
昼前なのに人は多い。
露店商の怒鳴り声が飛び交い、焼いた肉の匂いと香辛料の匂いが混ざっている。湿った空気のせいで匂いがいつもより重く、通り全体にまとわりついていた。
ノアは周囲を見ていた。
看板。
値札。
人の流れ。
荷車の位置。
視線が忙しい。
だが、怯えているわけじゃない。
情報を拾っている目だった。
「迷うなよ」
俺が言う。
「……迷わない」
即答だった。
「なんで分かる」
「目印」
ノアは小さく答える。
「赤い布と、あれはパン屋。あと壊れた看板」
見ている場所が細かい。
俺は少しだけ笑う。
「便利な頭してるな」
ノアは返事をしなかった。
褒められた時の反応が、まだ分からない顔だった。
雑貨屋へ入る。
紙や脂、皮袋。旅商人は地味な物ばかり買う。派手な品なんて、そうそう扱わない。
店主が商品を並べる間、ノアは黙って荷物をまとめていた。
重い物を下へ。
割れ物を上へ。
濡れると困る紙は、布で包んで内側へ。
自然にやっている。
「お前、慣れてるな」
俺が言う。
「運ぶ時、崩れるから」
「誰に教わった」
「見てた」
またそれだった。
店主が苦笑する。
「静かな子だな」
「喋る必要がないと喋らない」
「商会向きかもしれんぞ」
その言葉に、ノアの視線が少しだけ動いた。
覚えている。
前にも似たことを言われたのを。
店を出る頃には、荷物がそこそこ増えていた。
ノアは文句も言わず持っている。
体格の割に、持ち方が安定していた。
市場を抜け、今度は商会区画へ向かう。
こちらは少し静かだ。
木造の店より、石造りの建物が増える。行き交う人間も冒険者ではなく、商人や使用人が多い。
怒鳴り声より、低い会話。鉄の匂いより、紙とインクの匂い。
金が動く場所の空気だった。
ノアの歩幅が、ほんの少し小さくなる。
場に合わせている。
周囲の空気を読んでいるんだろう。
商会の入口で、俺は扉を押した。
中は涼しかった。
外の湿った熱気とは違い、空気が乾いている。磨かれた床には足音が控えめに響き、奥では紙を捲る音とペン先の擦れる音が重なっていた。
受付の男が顔を上げる。
「ヴァーニスト様」
すぐ名前が出る。ノアの視線がそちらへ向いた。
まだ慣れていないんだろう。
俺が“坊ちゃん側”として扱われる空気に。
「注文してた紙だ」
俺は言う。
「用意できております」
男が奥へ向かう。その間、ノアは静かに周囲を見ていた。
視線が止まらない。だが、落ち着きがないわけじゃない。
順番に見ている。
覚えている目だった。
奥の机では、商会員達が帳簿を広げていた。
「違う、そっちは昨日分だ」
「港側の数字が合ってません」
「だから在庫を――」
会話が飛び交う。
ノアはその声まで聞いていた。視線が机へ向き、数字を追う。
受付の男が紙束を持って戻ってくる。
「こちらになります」
俺は紙を確認した。紙質は悪くない、値段相応だ。その間も、ノアは商会の中を見ていた。
「……何見てる」
俺が聞く。
ノアは少しだけ迷ってから答える。
「覚えてる」
「何を」
「人と数字」
短い返事だった。
だが、妙に具体的だ。
「さっきの人、左の棚から3回紙を取った。奥の人は、同じ数字を2回見直してる」
俺は少し眉を上げる。受付の男まで、こっちを見た。
ノアは気付いていない。
本当に見えたものを言っているだけだ。
帰り際。俺はふと思いついて、机の上の帳簿を一冊抜き出した。
もちろん、見せても問題ない簡易帳簿だ。
「ノア」
「……はい」
帳簿を開く。
「見ろ」
ノアが近づく。
視線が数字へ落ちる。
仕入れ額。
売却額。
在庫数。
数秒。
俺は帳簿を閉じた。
「で」
ノアが顔を上げる。
「3段目の数字」
少しだけ間があった。
「……銀貨18枚……いや、8枚」
受付の男が目を瞬かせる。
俺はもう一度帳簿を開く。
合っていた。
「じゃあ次」
ページをめくり、今度は品目も混ぜる。
数秒見せ、閉じる。
「左端」
ノアは少しだけ考えた。
「……油と紙……保存袋」
「数字は」
「……たぶん、銀貨4枚」
また合っている。
受付の男が完全に動きを止めた。
「え……?」
ノアは逆に困った顔をしていた。
何が変なのか分かっていない。
俺は帳簿を閉じる。
「やっぱり覚えてるな」
「……見せてもらってたから」
当然みたいに言う。
商会員の1人が、気になったらしくこっちを見ていた。
「その子、教育を?」
「受けてない」
俺は答える。
「勝手に覚えた」
男が少し驚いた顔をする。
ノアは視線を下げた。
褒められる空気になると、まだ落ち着かないらしい。
俺は帳簿を袋へ戻しながら言う。
「お前、数字好きか」
「好きじゃない」
「じゃあ何で覚える」
ノアは少し黙った。
考えるというより、答えを探している顔だった。
商会の中では、まだ紙をめくる音が続いている。
インクの匂いがした。
「……必要だから」
静かな声だった。
だが、妙に納得できる答えだった。
必要だから覚える。
怒鳴られないために。
失敗しないために。
置いていかれないために。
そうやって生きてきたんだろう。
商会を出る。
外では、細かい雨が降り始めていた。
石畳へ落ちた雨粒が、薄く光っている。
ノアは荷物を持ち直しながら、ぽつりと聞いた。
「……普通は、覚えないんだ」
俺は少し笑った。
「普通は途中で忘れる」
ノアは少し黙る。
普通じゃないと言われても、何が違うのかまだ分からない顔だった。




