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23話 ヴァーニストの名前

宿へ戻る頃には、昼の熱気が街全体へ広がっていた。


石畳は陽光を跳ね返して白く眩しく、行き交う人の影は短い。荷車の車輪が軋み、通りの向こうでは商人同士が値段で怒鳴り合っている。


昼の街は、とにかく音が多い。

誰もが急ぎ足で、自分の用事だけを追っていた。


宿の扉を押し開けると、外の熱気より少しだけ湿った空気が流れてくる。


昼時の食堂は、朝より賑わっていた。


旅人達が遅めの昼食を取っている。

酒場側では、もう昼から飲み始めている連中もいた。煮込みの匂いと酒の臭いが混ざり、皿の触れ合う音が絶えず響いている。


「戻った」


声をかける。


「おかえりなさい」


返事はすぐだった。


窓際へ目を向けると、ノアがいつもの席に座っていた。


昨日と同じ場所だ。だが今日は、本じゃない。

小さな紙切れを机へ広げ、じっと睨むみたいに見つめている。


宿の主人が、皿を拭きながら苦笑した。


「その子、さっきから数字ばっか見てるよ」


「数字?」


近づく。


ノアが持っていたのは、宿の簡単な仕入れ表だった。


肉。

豆。

酒。

パン。


乱雑な字で値段が並んでいる。


インクも滲んでいて、正直かなり読みにくい。


「何してる」


「……見てた」


「読めるのか」


ノアは少しだけ迷う。


言っていいのか考える時の癖だ。


やがて、小さく頷いた。


「少し」


「どこまで分かる」


ノアは紙を指差した。


「これは昨日より高い」


「どれだ」


「肉」


主人が目を丸くする。


「お、本当だ」


紙を覗き込み、感心したように声を漏らした。


「昨日より銅貨2枚上がってる」


ノアは何も言わず、ただ数字を見ている。

俺は椅子へ腰を下ろした。


木椅子が軽く軋む。


「誰かに習ったのか」


「見てた」


前にも聞いた答えだった。

難民育ちの人間は、誰かに教わる前に盗み見る。


生きるために。


読み方も、人の顔色も、怒鳴られない場所も、全部、そうやって覚える。


主人が面白そうに笑う。


「商家向きじゃないか?」


「かもな」


俺は荷物を机へ置いた。


銀行から下ろした金貨袋が、鈍い重さの音を立てる。

その瞬間、ノアの視線がそっちへ向いた。


「銀行」


ぽつりと呟く。


「行ったのか」


「ああ」


「すごいところ?」


質問が珍しかった。


俺は少し考える。

銀行の豪華さを説明するより、正直な感想の方が早かった。


「面倒臭いところだ」


主人が吹き出す。


「夢がないねぇ」


「事実だ」


肩をすくめる。


「金を預ける場所で、金持ってる奴ほど偉そうになる」


「ジェイドさんも?」


「俺は性格が悪いだけだ」


また笑いが起きる。


昼酒を飲んでいた冒険者まで、こっちを見て肩を揺らしていた。


ノアは静かに聞いていた。だが、ちゃんと聞いている時の顔だった。


「……ヴァーニスト」


不意に言う。


俺は視線を向けた。


「聞いてたのか」


「少し」


少しどころじゃない。


たぶん全部覚えてる。


「大きい家なの?」


「まあな」


適当に答える。


だが、主人が横から口を挟んだ。


「“まあな”じゃないよ坊主。ヴァーニストって言ったら、ガイウェスト王国でも上の商家だ」


皿を布で拭きながら、主人は続ける。


「奴隷商人の中で最も大きいといっても過言じゃないよ」


ノアが少し目を開いた。


驚いた顔だった。


「そんなところの坊ちゃんが、旅商人?」


主人が聞く。

俺は椅子へ深くもたれ、天井を見上げた。

昼の光が窓から差し込み、梁の影を床へ落としている。


「よく言われる」


「実際、なんでなんだい」


主人は興味半分で聞いてくる。


俺は少しだけ考えた。


考える必要もない話だが、説明すると長い。


「親父は、典型的な商人だ」


「悪い意味で?」


「良い意味でも悪い意味でも」


主人が頷く。


分かるらしい。


「利益優先?」


ノアが小さく聞いた。


「利益最優先だ」


即答した。


「無駄を嫌い、損を嫌う。そして感情より数字を優先する」


言いながら、自分で少し笑う。


「商人としては正しい」


ノアは黙って聞いていた。

食堂の奥では、誰かが酒瓶を倒して怒鳴られている。だが、この席だけは妙に静かだった。


「嫌だったの?」


ノアの視線が真っ直ぐだった。

子供の目だ。だが、人を見る。


「嫌いじゃない」


俺は答える。


「ただ、合わなかった」


主人が皿を拭く手を止めない。

茶々も入れなかった。


「奴隷も商品として扱う」


俺は続ける。


「それ自体は間違ってない」


ノアは小さく瞬きをした。


否定も肯定もしない。


ただ聞いている。


「だが、親父は壊れるまで使う。俺は壊れる前に売る」


「変わらない気もするけどねぇ」


主人が苦笑する。


「変わるさ」


俺は机へ肘をついた。


「壊れた商品は価値が落ちる。長く使える方が高い」


商人の理屈だ。


優しさじゃない。だが、雑に扱う理由にもならない。


ノアは少しだけ考え込む。視線が机の上を動いた。


帳簿。

金貨袋。

市場で買った紙束。


「……だから、旅してるんだ」


「そうだ」


「街ごとに価値が違う。必要な場所も違う」


俺は市場で買った紙束を軽く叩く。


「同じ商品でも、場所で値段は変わる。故郷や、そいつを真に必要としている場所なら、尚更だ」


主人が肩をすくめる。


「悪徳商人だねぇ」


「そういう家で育ったからな」


ノアはしばらく黙っていた。


考えている時の顔だった。


周囲の音を聞きながら、頭の中で整理している。


「……全部、覚えてるのか」


「ん?」


「値段とか」


俺は少し笑った。


「覚えてないと死ぬ」


旅商人は、数字を間違えるだけで終わる。

ノアは小さく頷いた。


その顔が少しだけ真剣だった。


たぶん、今の会話ごと、全部覚えている。

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