22話 旅商人
朝の街は、昼より忙しい。
まだ日が高くなりきる前だというのに、石畳の通りには荷車が何台も並び、御者の怒鳴り声が飛び交っていた。軒先では露店商が布を広げ、木箱を並べ、焼きたてのパンの匂いが朝靄みたいに通りへ流れている。
宿の前でも、旅人達が慌ただしく荷を括り直していた。
門が開く時間に合わせて出る連中だろう。
遅れれば、次の街へ着く前に日が落ちる。
俺は宿の入口脇で帳簿を閉じた。
革表紙を指先で軽く叩き、頭の中で今日の予定を整理する。
商会。
情報屋。
市場。
銀行。
旅商人ってのは、移動している時間より、こういう細かい確認作業の方が長い。
商品の流れ。
街の空気。
金の動き。
それを外すと、途端に死ぬ。
「行くんですか」
後ろから声がした。
振り返ると、ノアがいた。
まだ少し眠そうな顔をしている。寝癖のついた髪をそのままに、扉の影からこっちを見ていた。
「仕事だ」
短く答える。
ノアは少しだけ考え込むみたいに視線を落としたあと、小さく聞いてきた。
「……今日は、どこへ」
「商会と市場。あと銀行」
「銀行」
言葉を繰り返す。
たぶん、まだ縁の薄い場所なんだろう。
難民や流民の暮らしに、金を預ける場所なんてまず出てこない。俺は荷物を肩へ掛ける。
「お前は宿だ。勝手に出るんじゃないぞ」
ノアは小さく頷いた。
特に不満そうな顔はしない。
ただ、その視線だけが少しだけ俺の荷物を追っていた。
宿の主人が奥から顔を出す。
「また仕事かい」
「旅商人だからな」
「働くねぇ」
「働かないと死ぬ」
主人は声を上げて笑った。
ノアはその会話を黙って聞いている。
最近分かってきた。
こいつは、自分から会話へ入らない。
その代わり、全部覚えてる。
言葉も、空気も、人の顔も。
俺は宿を出た。
朝の空気は少し冷えている。
昨夜降った雨が石畳へ薄く残り、踏むたび靴裏が湿った音を返した。
市場通りへ向かう途中、パン屋の前を通る。
焼きたての匂いがする。
店先では小麦粉だらけの職人が次々とパンを並べ、客が開店前から列を作っていた。隣では魚屋が桶を蹴飛ばしながら怒鳴っている。
街は、もう完全に動き始めていた。
最初に向かったのは情報屋だ。
表通りじゃない。
酒臭い裏路地を抜けた先。
看板も擦り切れた、古い雑貨屋みたいな店だった。
扉を押すと、小さな鈴が鳴る。
「なんだ、お前か」
カウンターの奥で、痩せた男が笑った。
椅子へだらしなく座り、煙草みたいな葉を噛んでいる。窓は半分閉じられ、店の中は薄暗かった。
「旅の奴隷商人とは聞いていたが、まだこの街にいたのか」
「商品整理してた」
「売れたのか?」
「ああ」
男は椅子へ深く座り直した。
「で、今日は何探しだ」
「市場の流れ」
「どっちだ? 人か物か」
「両方」
情報屋は肩を揺らして笑う。
「欲張りだな」
机の上へ紙束が置かれた。
市場価格。
流通。
最近の動き。
こういうのは、地味だが金になる。
旅商人は足で稼ぐ。
だが、情報を持ってる奴の方が強い。
「最近は?」
俺が聞く。
男は紙を捲りながら答えた。
「鉄はまだ高い。あと難民は減ったが、代わりに流民が増えてる」
「国境か」
「たぶんな」
肩をすくめる。
「あと、貴族と商家集め始めてる」
俺は少しだけ眉を動かした。
「どこも人手不足だ」
男は続ける。
「戦争は終わっても、人はすぐ戻らねぇ」
覚えておく。こういう小さい話が、後で金になる。
店を出る。次は市場だ。
昼前になると、人の数はさらに増えていた。
市場ってのは、街の腹の中みたいな場所だ。
歩いてるだけで、その街がどれだけ余裕あるか分かる。
俺は人混みを抜けながら、必要な物を頭の中で整理していく。
保存食。
油。
紙。
インク。
帳簿用の紙束も減っていた。
こういう消耗品の確認を忘れると、旅先で地味に困る。
店を回り、値段を見て、交渉する。
干し肉の質を確認し、油の匂いを嗅ぎ、紙の厚さを指で確かめる。
派手さはない。
だが、旅商人なんて結局こういう積み重ねだ。
大儲けの話なんて、そうそう転がっていない。
昼を過ぎた頃、銀行へ向かった。
街の中央区画にある、石造りの大きな建物だ。
冒険者ギルドとは空気が違う。
静かで、冷たい。
金の匂いがする場所だった。
中へ入ると、受付の女がすぐにこちらを見る。
「本日のご用件を」
「引き出しだ」
書類を出す。
女の視線が名前へ落ちた。その瞬間、ほんの少しだけ表情が変わる。
「……ヴァーニスト家の方でしたか」
周囲の空気まで、わずかに変わる。
やっぱり便利だな、この名前。
「親父の方じゃない」
俺は先に言った。
「独立済みだ」
「失礼いたしました」
受付嬢はすぐ頭を下げる。
態度は丁寧だ。
だが、“大商家の息子”を見る目になっている。
面倒臭い。
「融資の件でしょうか?」
女が聞く。
「違う」
俺は答える。
「融資は親父の案件だ。こっちは個人口座」
「承知いたしました」
書類が奥へ運ばれていく。
待ち時間の間、椅子へ腰を下ろした。
銀行は静かだった。
金貨が触れ合う音だけが、小さく聞こえる。
冒険者ギルドとは真逆だ。
冒険者が銀行をあまり使わない理由も分かる。
下位や中位は、稼いでもすぐ消える。
宿代。
修理費。
回復薬。
命を繋ぐ金は、貯まる前に出ていく。
高位以上になって、ようやく銀行と縁ができる。
「お待たせいたしました」
金貨袋が置かれ、鈍く重い音がした。
俺は中身を確認する。
問題ない。
袋を腰へ下げ、銀行を出る。
外へ出た瞬間、街の喧騒が戻ってきた。
静かな場所にいた後だと、余計に騒がしく感じる。
俺は小さく息を吐いた。
――さて。
戻るか。
宿へ向かう道を歩きながら、頭の中ではもう次の予定を考えていた。




