21話 ノア
第23話 役割を探す子供
夜の宿は、昼より音が多い。
酒を飲む声。
椅子を引く音。
酔っ払いの笑い声。
その隙間を縫うように、別の音も混じっていた。
皿を重ねる乾いた音。
床を拭く布の擦れる音。
暖炉の火が、小さく爆ぜる音。
ノアは、その全部で目を覚ます。
薄く目を開ける。
暗い。
部屋の中には、窓から流れ込む月明かりが少しあるだけだった。白っぽい光が床へ伸び、机の脚の影を細長くしている。
向かいのベッドでは、ジェイドが眠っていた。
寝息は静かだ。深く眠っているようにも見える。けれど、旅暮らしの人間だ。たぶん物音一つで起きる。
ノアは視線を天井へ戻した。
眠れないわけじゃない。
昔からこうだった。
難民集落では、深く眠ると物を盗まれる。
場所を取られる。
酷い時は、朝になったら誰か消えている。
だから、音を覚える。
人の足音。
怒鳴り声。
酔っ払いの笑い方。
危ない空気。
先に気付いた方が、生き残れた。
下の階から笑い声が響く。
誰かが歌い始め、それに別の誰かが野次を飛ばす。木杯を叩く音がして、遅れて笑いが広がった。
ノアは静かに身体を起こす。
隣を見る。ジェイドはまだ寝ていた。
机の上には、閉じられた帳簿が置かれている。だが、数字は少し覚えていた。
売却額。
宿代。
食費。
昨日より金貨が増えていた。
グランが売れたからだ。
――商品は全部売れた。
昨日、ジェイドはそんな顔をしていた。
嬉しそうでもない。
寂しそうでもない。
ただ、静かだった。
ノアには、ああいう大人がよく分からない。
怒鳴らない。
殴らない。
無理に笑わない。
でも、優しくもない。
仕事は仕事で切り分ける。
それなのに、雑には扱わない。
不思議な人間だった。
ノアはそっとベッドを降りる。
床板が、小さく鳴った。
その瞬間だった。
「……どこ行く」
暗いまま、ジェイドが言った。
ノアの身体が強張る。起きていた。
「み、水を……」
喉が少し詰まる。
ジェイドは薄く目を開けたまま、数秒だけノアを見る。
「そうか」
それだけ言って、また目を閉じた。
怒られない、それが逆に落ち着かない。
ノアは小さく扉を開け、静かに部屋を出た。
宿の廊下は冷えていた。
昼間は人が行き交っていた場所も、今はランプの火だけがゆっくり揺れている。古い木材が夜気を吸い込み、裸足に近い足裏へひんやりした感触が伝わった。
階段を降りる。
1階の酒場部分は、まだ少し騒がしかった。
けれど昼間の喧騒とは違う。
酔いが回った後の、だらけた空気だ。
冒険者が机へ突っ伏し、店主が慣れた顔で木杯を片付けている。暖炉の火は小さくなり、橙色の光が床へぼんやり広がっていた。
「おや」
店主がノアに気付く。
「まだ起きてたのかい」
「……水、飲みに」
「偉いねぇ」
店主が笑った。
「酔っ払いみたいに吐かないだけ助かるよ」
ノアはどう返していいか分からない。
だから黙る。
店主は慣れているらしく、気にせず木杯へ水を注いだ。
井戸水は冷たい。ノアは両手で木杯を持つ。
冷たさが指へ染みる。
「お前さん、静かだよなぁ」
店主がぽつりと言う。
「前の2人は比べると賑やかだった」
カイルは声が大きい。
グランは槌音みたいに喋る。
ノアは少しだけ頷いた。
「……役に立てないので」
店主の手が止まった。
皿を拭いていた布が、途中で止まる。
それから少しだけ眉を下げた。
「そんなことないさ」
「でも、子供だし」
言った瞬間、自分で変な感じがした。
子供。
そう呼ばれることに慣れていない。
難民集落では、子供でも動けなければ食えなかった。荷運びも、水汲みも、死体運びも、できる奴からやる場所だった。
店主は少し考える。
それから、洗い終わった皿を1枚持ち上げた。
「じゃあ、これ運んでくれるか?」
ノアはすぐ頷く。
皿を受け取る。すると自然に身体が動いた。
どこへ置くか。
どう持てば落とさないか。
誰の邪魔にならない位置か。
考える前に動いていた。
店主が小さく笑う。
「ほら、役に立ってる」
ノアは返事ができなかった。
そう言われることに慣れていない。
皿を戻し、椅子を直す。
こぼれた酒を拭く。
気付けば勝手に動いていた。
店主はもう止めない。
「お前さん、商家向きかもな」
ぽつりと呟く。
ノアは少し首を傾げた。
「しょうか」
「店だよ」
店主が笑う。
「人の動き見るの、上手いからな」
ノアは少し考える。
人を見る。
空気を見る。
怒られない場所を探す。
それは昔からやっていたことだった。その時、上の階から足音が聞こえる。
軋む階段を降りてきたのはジェイドだった。
眠そうな顔をしている。髪も少し乱れていた。
「……何してる」
低い声で聞く。
「手伝ってもらってたんだよ」
店主が先に答えた。
ジェイドはノアを見る。ノアは反射みたいに背筋を伸ばした。
怒られると思った。だが、ジェイドは小さく息を吐くだけだった。
「勝手に働くなって言っただろ」
「……すみません」
「別に怒ってない」
ジェイドはカウンターへ肘をつく。
眠気の残る顔のまま、水差しを取った。
「ただ、かなり自由を与えているとはいえ、お前は一応奴隷だ。何かあったら俺が責任を負うことになる」
昨日と同じ言葉だった。
店主が苦笑する。
「お前さん、この子に甘いよな」
「違う」
ジェイドは水を飲みながら言う。
「勝手に動くから、放っておいてるだけだ。それに……」
そこで視線がノアへ向く。
眠たげな目だった。
だが、ちゃんと見ている目でもあった。
「役に立ってるなら、それでいいだろ」
ノアは少しだけ顔を伏せた。
木杯を持つ指へ力が入る。
うまく返事ができない。
でも、口元だけは、ほんの少し緩んでいた。




