20話 静かな宿
グランを置いて店を出た時、外はもう薄暗くなっていた。
鍛冶区画だけが、まだ昼の続きをやっているみたいだった。
炉の火が通りへ赤く漏れ、煤混じりの煙が夜空へ細く伸びている。熱を含んだ風が背中を撫で、その向こうでは、まだ絶え間なく槌音が響いていた。
振り返らなくても分かる。たぶんグランは、もう普通に炉の前へ立っている。
売られたとか、買われたとか、そういう話より先に火を見る奴だ。
「……売れたな」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
隣を歩いていたカイルも、もういなかった。
鍛冶屋の前で別れたのだ。ラグス達と一緒に、酒場の灯りの方へ消えていった。フェルの笑い声だけが、少し遅れて通りへ残っていた気がする。
グランもいなくなった。
気付けば、また1人だ。
――いや。
正確には違う。
宿へ戻れば、まだ1人いる。
石畳を踏む音が、静かな夜へ沈んでいく。
昼間は人で溢れていた通りも、今は随分と空いていた。露店は布を畳み、商人達は売れ残りを箱へ戻している。
代わりに増えるのは、夜の人間だ。
酒臭い酔っ払い。
夜番の兵士。
安酒を片手に歩く冒険者。
昼と夜では、街を歩く連中の顔が違う。
宿の扉を押すと、木の軋む音と一緒に、暖かい空気が流れてきた。
酒場併設の宿らしく、1階の空気には煮込みと酒の匂いが染み付いている。けれど夕食時の山は越えたらしく、昼間ほど騒がしくはなかった。
奥の卓では冒険者が2人、眠そうな顔でカードを切っている。
カウンターでは店主が木杯を磨いていた。
「戻った」
声をかけると、返事はすぐに返ってきた。
「……おかえりなさい」
共用スペースの隅。
ランプの下で、ノアが本を読んでいた。
膝を抱えるみたいに椅子へ座り、小さな身体をさらに小さくしている。灯りが届く範囲だけが丸く明るく、その中へ閉じこもるみたいな座り方だった。
読んでいるのは、また宿の本だ。
擦り切れた冒険譚。
何度も読まれたのか、表紙の角が丸く潰れている。
「まだそれ読んでるのか」
俺が言うと、ノアは少しだけ本から顔を上げた。
「……他、読んだ」
「全部か?」
小さく頷く。
「暇だったので」
その声は相変わらず小さい。だが、最初に比べれば随分まともに返事をするようになっていた。
奥で皿を拭いていた店主が笑う。
「その子、本当に静かで助かるよ」
「ん?」
「勝手に水運んでくれるし、空いた皿も下げてくれる。下手な手伝いより気が利く」
「勝手に働くなって言ったんだがな」
俺が言うと、ノアは少しだけ視線を逸らした。
怒られると思った時の顔だった。
「……すみません」
「別に怒ってない」
そう返しながら長椅子へ腰を下ろす。椅子が、ぎし、と小さく軋んだ。
ノアはそこで少しだけ肩の力を抜く。
本当に、顔色を見るのが癖になっている。
店主が木杯を机へ置いた。
「飯、温め直すか?」
「ああ、頼む」
「今日はシチューだ」
「豪華だな」
「残り物だよ」
笑いながら、店主は奥へ引っ込む。
鍋をかき混ぜる音が聞こえた。
宿の中には、豆と肉を煮込んだ匂いが広がっている。旅の宿らしい、安いが腹には溜まる飯だ。
俺は荷物を机へ置き、革袋から今日の金を取り出した。
金貨。
銀貨。
銅貨。
習慣みたいに並べる。
数える。
帳簿へ書く。
今日の売却額。
宿代。
飯代。
雑費。
旅商人なんて、結局はこういう細かい積み重ねだ。
派手に稼いでいるように見えても、油断すればすぐ消える。
ノアは本を開いたまま、ちらちらとこっちを見ていた。
視線は帳簿の数字へ向いている。
「見て分かるのか」
聞くと、ノアの指が止まった。
「……少しだけ」
「読めるのか?」
「簡単なのなら」
視線は帳簿へ向いたままだ。
俺は少しだけ眉を上げた。
最初に会った頃より、明らかに言葉が増えている。
「誰かに教わったのか」
「覚えた」
「どうやって」
ノアは少し考える。
それから、小さく答えた。
「見て」
難民育ちらしい答えだった。
生きるために盗み見て、聞き覚えて、使えるものを拾ったんだろう。
宿の奥から、店主の声が飛んでくる。
「坊主、その年で字読めるなら十分立派だぞ」
ノアは反応しなかった。
褒められることに慣れていない顔だった。
しばらくして、店主が鍋を持って戻ってくる。
湯気が立っていた。
豆と肉の匂いが、一気に広がる。
「ほらよ」
机へ皿が置かれる。
ノアは視線だけ動かした。
だが、すぐには手を出さない。
俺が先にスプーンを取る。
それを確認してから、ようやくノアも動いた。
食べる量は少なめだ。
音を立てず、急がず、それでも周囲だけはちゃんと見ている。
足りているか。
食べすぎていないか。
怒られないか。
そんな確認をしながら食っている感じだった。
「足りるか」
俺が聞く。
ノアの手が止まった。
たぶん、その聞かれ方に慣れていない。
「……はい」
少し遅れて返事が来た。
店主が苦笑する。
「お前さん、その子に気ぃ使うよな」
「商品管理だ」
「便利な言葉だねぇ」
笑いながら、店主は空いた皿を回収していく。
その間も、ノアは静かだった。
けれど、何も見ていないわけじゃない。
客の数。
皿の位置。
人の動き。
誰が酔っていて、誰が機嫌が悪いかまで見ている。
無意識なんだろう。
役割を探している。
必要な場所を探している。
そうしないと、生き残れなかった奴の動きだ。
――さて。
最後の商品は、どう売るか。
帳簿を閉じる。
ぱたり、と乾いた音が鳴った。
ランプの火が揺れる。
宿の笑い声は遠い。
その向こうで、ノアはまた静かに本を開いていた。




