第2話 働き方改革
「働き方改革、ですか」
局長は、老眼鏡をずらして、シノの提出した企画書を二度見した。
回収局の局長は、死神歴三千年の古狸である。冥府の財政当局と本省のあいだで何百年も板挟みになり続けた結果、顔から表情というものがほとんど消えていた。能面のような顔で、能面のような声で、彼は言った。
「面白いことを言うね、第三課の。で、これは、何だ」
「現場からの、改善提案です」シノは、姿勢を正した。「いまの回収局は、限界です。職員一人あたり三万件。慢性的な徹夜。誰も、まともに魂を見送れていません。これは、働き方の問題です。だから――」
「予算は」
「は?」
「予算はあるのか、と聞いている」局長は、能面のまま言った。「人を増やすには金がいる。設備を変えるにも金がいる。冥府にその金はない。来年度の概算要求も、本省に蹴られた。今年で三百年連続だ。わかるか。死神を増やす金は、ない」
シノは、ぐっと、こぶしを握った。
「金をかけずに、変えます」
局長の眉が、ほんのわずか、動いた。能面が動いた。それは、回収局では大事件に近い。
「……聞こう」
じつは、回収局が「働き方」に手をつけるのは、これが初めてではなかった。
過去にも、何度か、改革は試みられている。
三百年前には、本省の肝いりで、「ノー残業デー」が導入された。毎週水曜日は残業をしてはいけない、という決まりだ。趣旨は、立派だった。結果は、悲惨だった。水曜にできなかった回収票が、木曜と金曜に、そっくり上乗せされただけだった。死神たちは、水曜に早く帰った分、木金で、倍、働いた。死亡者は、水曜だからといって、待ってはくれない。「水曜に死ぬのを遠慮してくれる人間はいない」というのが、現場の、有名な嘆きになった。
百五十年前には、「冥府プレミアムフライデー」が始まった。月末の金曜は午後三時に退局しよう、という試みだ。三回で、立ち消えた。月末は、月締めの書類が、いちばん多い時期だったからだ。誰一人、三時には帰れなかった。
つまり、冥府の改革は、いつも、上から降ってきて、現場を見ずに、号令だけをかけて、そして、現場を、さらに苦しめた。「働き方改革」という言葉に、ベテランたちがいい顔をしないのは、そのためだった。また、お題目か、と。
だから、シノは、号令をかけなかった。
シノがやったのは、地を這うような、地味な作業だった。
最初に手をつけたのは、業務の棚卸しだった。
シノは、死神たちの一日を、すべて記録した。回収にかかる時間、移動にかかる時間、そして――書類仕事にかかる時間。記録してみて、シノは愕然とした。
死神が魂を回収するのにかかる時間は、実は、ほんの数秒なのだ。手を伸ばし、触れる。それだけ。一件あたり、数秒。三万件でも、純粋な回収だけなら、数時間で終わる計算になる。
では、残りの時間は、何に使われているのか。
書類だった。
一件の回収につき、回収前申請書、回収実施報告書、魂魄状態確認票、転生先振り分け予定調書、未練残存度チェックシート、そして冥府様式第十七号「回収に際し特記すべき事項なき旨の届出」――つまり「特に何もありませんでした」と報告するためだけの書類――が、それぞれ必要だった。
すべて手書き。すべて要・上長承認印。承認印は、第三課長、課長補佐、係長、主任の四つが揃わないと受理されない。
死神たちは、魂の回収より、書類の回収印を集めるのに、はるかに長い時間を費やしていたのだ。
「これだ」
シノは、確信した。三万件の残業の正体は、魂ではない。紙だ。
シノは、まず冥府様式第十七号の廃止を提案した。「特に何もありませんでした」という報告を、わざわざ書面で出す必要があるのか、と。
提案は、即座に却下された。
「前例がない」というのが理由だった。三千年前に、ある死神が回収の際にうっかり別人の魂を持ち帰るという大失態を犯し、その再発防止策として様式第十七号が制定された。以来、一件の例外もなく運用されてきた。だから廃止できない。三千年間ずっとやってきたことを、いまさらやめる理由がない。
反対の急先鋒は、第一課の、古参中の古参、ツカサだった。死神歴、二千年。書類の鬼、と呼ばれる男だ。
「様式第十七号には、深い意味がある」ツカサは、会議で、滔々と語った。「これは、我々が、一件一件の回収を、いいかげんに済ませていないという、証明だ。書類を書くという行為そのものが、我々の、職務への誠実さなのだ」
「でも、ツカサさん」シノは、聞いた。「その様式第十七号、誰か、読んでます?」
「……読む?」
「提出された様式第十七号を、誰か、目を通してますか。一件でも」
会議室が、しんとした。
実のところ、誰も、読んでいなかった。「特に何もありませんでした」という何万枚もの報告書は、提出されると、そのまま倉庫に積み上げられ、百年に一度、まとめて焼却されるだけだった。誰の目にも、触れずに。
「書くことが誠実さだと、おっしゃいました」シノは、静かに言った。「でも、誰にも読まれない書類を書くために、本物の最期を急がされてる現場が、誠実なんですか」
ツカサは、答えられなかった。
「再発防止のための書類が、いまや業務を圧迫してるんですよ」シノは食い下がった。「再発を防ぐために、現場を壊してどうするんですか」
「君は、三千年の伝統を否定するのかね」
「伝統じゃなくて、惰性です」
会議室が、しんと静まり返った。古参の死神たちが、化け物でも見るような目で、シノを見た。
それでも、シノは、引かなかった。
一枚一枚、書類を槍玉に挙げ、理由を問い、廃止を迫った。「念のため」で残っていた書類。「昔こういうことがあったから」で残っていた書類。誰も中身を読んでいない書類。出すこと自体が目的になった書類。
そういうものが、山ほどあった。
半年かかって、シノは、十七種類あった書類を、三種類まで減らした。
承認印も、四つから一つにした。「四人で確認しても、間違えるときは間違える。それなら一人がちゃんと見たほうがいい」――そう主張して、押し通した。
効果は、てきめんだった。
第三課の平均残業時間が、目に見えて減った。三万件は変わらない。けれど、三万件にかかる時間が、半分以下になった。死神たちは、久しぶりに、太陽の出ているうちに――冥府に太陽はないが、ともかく勤務時間内に――家へ帰れるようになった。
ある夜、シノは、ゲンさんの回収に、たまたま居合わせた。
書類に追われなくなったゲンさんは、一人の老人の枕元で、いつもより、ずっと長く、立っていた。砂時計はもう落ちている。手を伸ばせば、すぐに終わる。けれど、ゲンさんは、すぐには、手を伸ばさなかった。
その老人の部屋には、古い写真が、たくさん飾られていた。若いころの写真。家族の写真。旅行の写真。ゲンさんは、その一枚一枚を、ゆっくりと、見ていた。
「いい人生だったみてえだな」ゲンさんは、ぽつりと言った。「孫が、五人もいる。立派なもんだ」
そして、ゲンさんは、手を伸ばし、老人の魂に、そっと触れた。
回収のあと、ゲンさんは、誰もいない部屋に向かって、深く、一礼した。
「ご苦労さん。長いこと、ご苦労さん」
シノは、その背中を、見ていた。
八百年、こういう見送りを、ゲンさんは、本当はずっと、したかったのかもしれない。書類さえ、なければ。時間さえ、あれば。
シノが減らしたのは、ただの書類だった。けれど、その書類の向こうで、こういう時間が、死神たちに、少しずつ、戻ってきていた。
「やるじゃねえか、シノ」
ゲンさんが、めずらしく、素直に言った。
「八百年、誰も触らなかった様式第十七号を潰したのは、おまえが初めてだ」
シノは、少し、誇らしかった。
けれど、調子に乗りすぎた。
書類を減らして時間ができると、シノの目は、次の「ムダ」に向いた。移動時間である。死神は、一件回収するごとに現場へ飛び、また次の現場へ飛ぶ。同じ地区の回収を、別々の死神がバラバラに担当していて、無駄に行き来していた。
シノは、回収を「ルート化」した。
近い場所の案件をまとめて、一人の死神が効率よく回る。宅配便の配送ルートのように、最短距離で複数の魂を回収していく。一件あたりの移動時間が、激減した。
数字は、さらに良くなった。
局長は、その月の報告を見て、能面を二ミリ動かした。
「素晴らしい。生産性が、二倍になった」
シノは、ルート化をさらに推し進めた。一人の死神が、一晩で回る件数を、どんどん増やしていった。効率、効率、効率。一件あたり何秒で回収できるか。どうすれば、もっと速く、もっと多く回れるか。
そして、ある夜。
事故が、起きた。
ルート化された回収の途中、ある死神が――それはユウだった――スケジュールに追われて、一件の回収を、わずかに急いだ。砂時計の確認を、いつもより、ほんの少しだけ、雑にやった。
その魂は、まだ、落ちきっていなかった。
あと数分、生きるはずだった老人だった。最後に、隣の部屋で眠る孫の顔を、もう一度だけ見るはずだった。けれど、ユウの手が、数分早く、その魂に触れた。
老人は、孫の顔を見ることなく、逝った。
取り返しのつかない、ミスだった。
回収局では、大騒ぎになった。三千年ぶりの「誤回収」――いや、今回は別人ではなく時刻の誤りだったが――に近い事案だ。ユウは、始末書を書かされ、ひどく落ち込んだ。
そして、シノは、思い知った。
「効率」を突き詰めた先に、自分は何を作ろうとしていたのか。
書類を減らすのは、正しかった。あれは、魂のためにならない仕事だった。けれど、移動時間を削り、一件あたりの秒数を削り、死神を配送ロボットのように回らせたあのやり方は――あれは、何のためだったのか。
速く回るために、一人ひとりの最期が、おろそかになった。砂時計をちゃんと見る、その数秒すら、惜しむようになっていた。
それは、シノがいちばん、許せなかったものだ。
「処理」にしてしまった。自分が、いちばんそれを憎んでいたのに。
シノは、ユウの席へ行って、頭を下げた。
「ごめん。おれが、急がせた」
ユウは、首を振った。
「シノさんのせいじゃ……」
「おれのせいだよ」
ゲンさんが、横から、ぽつりと言った。
「効率には、いいやつと、悪いやつがある」
シノは、顔を上げた。
「ムダな書類を減らすのは、いい効率だ。あれは、本来の仕事に時間を返す。だが、本来の仕事そのものを削るのは、悪い効率だ。それは、ただ、大事なものを捨ててるだけだ」
ゲンさんは、回収票の塔を見上げた。
「魂を見送るのにかかる、その数秒。砂時計をちゃんと見て、その人の顔を見て、ああ、いい人生だったな、と思う、その数秒。――そいつだけは、削っちゃいけねえ。そこを削ったら、おれたちは、もう死神じゃない」
シノは、その夜、ルート化のスピード設定を、すべて元に戻した。
書類は、減らしたままにした。けれど、一件あたりにかける時間は、死神たちの裁量に戻した。急ぐべきところと、急いではいけないところを、分けた。
残業は、また少し、増えた。
それでも、シノは、これでいい、と思った。
問題は、まだ何も、根本的には解決していなかった。三万件は、三万件のままだ。書類を減らしたところで、人手不足そのものは、変わらない。死神の数は、増えない。冥府に、金はない。
シノが半年かけて作った余裕は、増え続ける死亡者数の前で、じりじりと、また削られていった。
その年の冬。
本省から、ひとつの通達が、回収局に降りてきた。
通達には、こう書かれていた。
〈魂魄回収業務における、人工知能の試験導入について〉




