第1話 今日も三万件
死神について、世間にはひとつ大きな誤解がある。
黒いローブをまとい、大鎌をかつぎ、骸骨の顔で闇から音もなく現れる――人間はずいぶん長いこと、そう信じてきた。
実態は、公務員である。
正式名称、冥府魂魄回収局。通称「回収局」。死神とはそこに勤める職員のことで、要するに役人だ。大鎌はとうの昔に廃止された。振り回すと危ない、という労働安全衛生上のしごく真っ当な理由による。ローブも、夏は暑いという苦情が積もりに積もって、いまではクールビズ仕様の作業着に替わっている。骸骨の顔に至っては、ただの噂だ。死神にもちゃんと顔がある。たいてい、ひどく眠そうな顔が。
シノは、その眠そうな顔の代表格だった。
回収局・第三課の窓際の席で、シノは目の前に積み上がった回収票の山を見上げていた。一枚一枚が、ひとつの魂だ。本日中に回収すべき魂が、紙の塔になって、天井近くまで届いている。
「……今日も三万件、残業か」
つぶやきは、誰にも届かなかった。隣の席のゲンさんは、すでに現場へ飛んでいる。向かいのユウは、三日前から帰っていない。課のあちこちで、死神たちが青白い顔で――もともと青白いのだが、さらに青白い顔で――回収票をめくり続けている。
回収局は、慢性的な人手不足だった。
理由は、はっきりしている。人間が死ななくなった、わけではない。むしろ逆だ。死にすぎているのである。
医療が発達し、衛生が整い、人間の寿命はぐんぐん延びた。延びた寿命の果てに、巨大な世代がいっせいに最期を迎える時期がやってきた。高齢化社会、というやつだ。死亡者数は毎年増え続け、いっこうに減る気配がない。年に百五十万、百六十万という単位で、人間は寿命を終えていく。
ところが、死神の数は増えない。
新規採用は、何十年も凍結されたままだった。冥府の財政も楽ではないらしく、「既存職員の生産性向上で対応せよ」という通達が、毎年判で押したように降りてくる。生産性向上。つまり、もっと働け、ということだ。
結果として、一人あたりの担当件数は、天井知らずに膨れ上がった。シノが新人だったころ――といっても二百年ほど前だが――一日の回収は、多くて百件だった。それがいまや、三万件である。
物理的に不可能だ、と誰もが思っている。思っているが、口には出さない。出したところで、回収票が減るわけではないからだ。
その夜も、シノは、現場を駆け回っていた。
午後八時、東の郊外。寿命を終えた老人の枕元に立ち、砂時計を確認し、手を伸ばし、触れる。三秒。終わり。次。
午後八時三分、同じ町の、別の家。今度は、老婦人。砂時計を確認し、触れる。三秒。次。
午後八時五分、隣町。今度は、病院の、一室。
そこには、家族が、いた。
ベッドを囲んで、息子らしき男と、その妻と、まだ小さな孫が、泣いていた。「おじいちゃん、おじいちゃん」と、孫が、呼んでいた。老人の、しわだらけの手を、家族みんなが、握っていた。
シノは、その光景を、一瞬だけ、見た。
いい最期だな、と、思った。みんなに囲まれて。手を握られて。こういう人を、ちゃんと、見送ってやりたい。一人ひとりの、こういう瞬間に、本当は、立ち会いたい。
けれど、シノの後ろには、あと二万九千九百九十六件の回収票が、控えていた。
シノは、砂時計を確認し、手を伸ばし、触れた。
三秒。
老人の魂が、すうっと、軽くなる。家族の泣き声が、遠ざかる。シノは、その魂を抱える間もなく、もう、次の現場のことを、考えていた。
これでいいのか、と、思う暇も、なかった。
次。次。次。
明け方までに、シノが「処理」した魂は、千を超えた。一人として、顔を、覚えていなかった。
シノは、塔のいちばん上の一枚を取った。
〈回収対象 No.1502-887 女 享年九十二 回収予定 本日二十三時〉
名前は、ハナ。
その票には、見覚えがあった。先週も、先々週も、シノはこの票を手に取っている。回収予定の時刻に現場へ赴き、そして――回収できずに帰ってきた。
ハナという老女は、まだ生きていた。
回収票には「享年九十二」とあり、寿命の砂時計は、とうに落ちきっているはずだった。なのに、ハナは死なない。布団の中で、しわだらけの手をきちんと膝の上で組んで、毎晩、誰かを待つように天井を見上げている。シノが枕元に立っても、視線が合うことはない。死神の姿は、まだ生きている人間には見えないからだ。
「お迎えが、来ないねえ」
ハナはときどき、そう独りごちた。
「お父さんが、迎えに来てくれるって、言ったのに」
お父さん、というのは、六十年前に先立った夫のことらしかった。回収局のデータベースには、その記録もきちんと残っている。No.0902-114、享年三十四、炭鉱の事故。若くして逝った夫を、ハナはたった一人で、六十年、待ち続けていた。
シノは、その票を回収待ちの箱に戻した。今日もまた、ハナのところへ行くことになる。そして、たぶん今日も、連れていけない。
寿命が尽きているのに死なない人間が、最近、少しずつ増えていた。回収局では「未回収案件」と呼ばれ、件数だけがじわじわと累積していく。原因は、わからない。わかっている職員がいるのかもしれないが、誰も真剣に調べる余裕などなかった。みんな、目の前の三万件で手一杯なのだ。
「シノ、また延ばす気か」
声がして、振り向くと、ゲンさんが戻ってきていた。死神歴、八百年。課でいちばんの古株で、いちばんの皮肉屋だ。手にした回収票の束を、どさりと自分の机に放る。
「あのばあさんだろ。No.1502-887。おまえ、三週連続で再延期の判を押してる。記録、残ってるぞ」
「……見てたんですか」
「監査が見てる。おれじゃない」ゲンさんは肩をすくめた。「規定どおりにやれ。砂時計が落ちたら、回収する。幻を見てようが、泣いてようが、関係ない。情を挟むな。挟んでたら、三万件なんか、永遠に終わらん」
「終わらないのは、情のせいじゃないでしょう」
シノは、思わず言い返していた。
「三万件が、おかしいんですよ。一人で三万人を見送るなんて、できるわけがない。ゲンさんだって、本当はわかってるはずだ」
ゲンさんは、しばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。皮肉でもなく、ただ、疲れたような笑いだった。
「わかってるさ。二百年前から、いや、八百年前から、ずっとおかしい。だがな、シノ。おかしいと言ってるだけじゃ、何も変わらん。おれは、それを八百年やって、学んだ」
そう言って、ゲンさんは、また回収票の束に向き直った。
午後十一時。
シノは、ハナの家の枕元に立っていた。
古い木造の平屋だった。隙間風が、薄い布団をなでていく。ハナは目を開けたまま、天井のひとつの点を、じっと見ていた。その手は、今日もきちんと、膝の上で組まれている。
「……まだ、来ないか」
シノはつぶやいた。むろん、ハナには聞こえない。
砂時計を確認する。落ちきっている。とうに、落ちきっている。回収の条件は、すべて満たされている。あとはシノが手を伸ばし、魂にそっと触れれば、それで終わる。痛みもなく、苦しみもなく、ハナは長い人生を終え、安らかな場所へ向かうことになる。
シノは、手を伸ばした。
そして、止めた。
ハナの目から、つうっと、涙がひとすじ流れたからだ。
「お父さん」
ハナは、誰もいない天井に向かって、小さく笑った。
「迎えに、来てくれたの」
シノには、見えていた。ハナの濁った瞳が映しているのは、シノではない。シノの後ろの、何もない空間でもない。たぶん、六十年前の、若い炭鉱夫の幻だ。死の間際の人間が、ときどき見るという、迎えの幻。
シノは、手を引っ込めた。
連れていけなかった。今日も。
規定では、こういうとき、死神は粛々と回収を執行することになっている。幻を見ていようが、涙を流していようが、関係ない。砂時計が落ちきれば、回収する。それが仕事だ。感情を挟む余地はない。挟んでいたら、三万件など、とてもこなせない。
それでも、シノには、できなかった。
「……明日に、しよう」
そうつぶやいて、シノは現場を後にした。回収票には「再延期」と判を押した。未回収案件が、また一件、積み上がった。
回収局に戻ると、すでに空が白みかけていた。徹夜明けの死神たちが、亡霊のように――実際、そういうものに近いが――デスクに突っ伏している。
給湯室で、ユウが、冥府名物の、まずいコーヒーを、すすっていた。目の下に、濃い隈ができている。三日ぶりの帰宅もできないまま、また新しい朝を、迎えていた。
「ユウ、大丈夫か」シノが、声をかけた。
「……平気です」ユウは、力なく笑った。「あと、一万件くらいで、今日のノルマ、終わるんで」
「一万件が、平気なわけ、ないだろ」
「でも、やるしか、ないじゃないですか」ユウは、コーヒーを見つめた。「人間は、死ぬのをやめてくれないし。死神は、増えないし。……シノさん。おれたち、いつまで、こんなこと、続けるんですかね」
シノは、答えられなかった。
ユウの言葉は、回収局の、誰もが、心の底でつぶやいている言葉だった。いつまで。この、終わらない残業を。けれど、誰も、その答えを、持っていなかった。
シノは、自分の席に座り、天井近くまで届いた回収票の塔を、もう一度見上げた。
三万件。
このうちの何件を、自分はちゃんと「見送れて」いるのだろう。手を伸ばし、魂に触れ、その人生の最後 の瞬間に立ち会う――本来、それが死神の仕事だったはずだ。なのに、いまや、ただ砂時計を確認して、機械的に触れて、次へ行く。一件あたり、数秒。顔も見ない。名前も覚えない。
これは、見送りではない。ただの、処理だ。
「……こんなの、おかしいよ」
シノは、誰にともなくつぶやいた。
そのとき、ふと、思った。
おかしいなら、変えればいいのではないか。
二百年、ずっとこうだったから、こういうものだと思っていた。けれど、三万件の残業は、本当に「こういうもの」なのか。誰かが、どこかで、間違えているのではないか。間違えているなら、正せばいい。
若い死神は――二百歳は、死神としては十分に若い――その朝、ひとつの決意をした。
働き方を、変えよう。
それが、すべての始まりだった。




