76.海神様と
午後九時。
晩御飯のシチューを三人で食べて、てっきり泊まっていくものだと思っていた二人が揃って帰っていった。「布団持ってきてないでしょ?」と森津木さんと小鳥少年に言われて初めて気が付いたくらいに、当たり前に泊まるものだと思っていた。
最初に、日が暮れてからは戸を開けないことと教えてもらっているのだが、この二人は意外にサクサク外に出る。いや、まあ警戒はしているだろうし、ある程度強い?からだろうけど…。
微妙に腑に落ちない俺とは違い、普段通りの小春が話しかけてくる。
「お兄ちゃん。海神様とお話ししてみたら?ゆっくりとお話しできてないでしょう?多分、森津木さんと小鳥お兄ちゃん、気を利かせてくれたのだと思うの」
「あ、そうか」
なるほど。気を遣わせてしまったのか。しかもそれを小春に教えてもらうまで気づかないって、うわあ。
ちらりと小春に視線をやると、嬉しいのかにこりと笑う。小春は良い子だなぁ。
さて、折角皆が気を遣ってくれたのだ。少しでも海神様と今後の事を相談したい。午前中は海神様とは、ほんの少ししか話せなかったのだ。どうやら消耗が酷いらしく、すぐに眠りについてしまった。半寝状態の海神様に雁木玉に入ってもらったのが寝落ちギリギリだったと思う。今なら少し話せるだろうか。
「海神様?もし起きてたら少しお話しませんか」
雁木玉にそっと話しかけるとシュルリと小さなサイズの海神様が出てきた。
「お早うございます?海神様」
≪ふふ、夜なのに、お早う、なのだな≫
柔らかく微笑んだ海神様の顔には、まだ疲労の色が濃く残っているように見える。
「寝起きの挨拶なので、お早うにしてみました。少し、お話しできますか?」
≪是≫
そう言って海神様はその場に腰を下ろした。
「海神様。俺、少なくとも今月いっぱいはこの郷に残ろうと思っています。で、現世に帰って、すぐに海に行けるとして、最短でも約十二日。長ければどれほどかかるかも分かりません。
海神様大丈夫ですか?すぐに海に連れて行かないと消えてしまったりしませんか」
そう。そこなのだ。ただでさえ消耗している海神様をこのまま海から離していても大丈夫なのか。まずはそこである。
海神様が返事をする前に、次の言葉を重ねる。
「それで大問題もあるのですが、俺が現世に帰った時にこの郷でのことを忘れる可能性がとても高いのです。海神様のことを、海に行かなければならないということを全て忘れているかもしれません」
≪ふむ?では一つずつ答えよう。私の器のことなら気に病むことは無い。愛し子が、私を思い出してくれたそれだけで、器は保たれよう。ましてや、祈りすら捧げられて。むしろ、今のなんと心地のよきこと。
現世に戻ってからについては。そうさのう。………。まあ、我が封じは無いゆえ、この郷でのことを覚えてなくとも私のことは思い出したままになる。現世に戻った愛し子からすれば、急に思い出したことになるか。愛し子なら私を探しにあの海に行こうとするのではないかな。その際に、するりと戻れば良かろう。
なれど、私が入っておるこの珠、そちらの童の住処だろう?何か、代わりの依代を探してくれると助かるのだが≫
少し困った顔をして、首をかしげる。どうやら海神様は小春に申し訳ないらしい。
けど、依代と言われても…。くいっと裾を引かれて目をやると、珍しく肩に乗ってきてない小春が手を上げていた。
「どうぞ、小春。あ、待った。紹介してなかったな。海神様。この子は小春。俺がお世話になっている福童です。今は一緒に行動してます」
小春が少し困っている顔をした。え、どうした小春。何だ。俺の紹介に何かいけないところがあったのか。小春は少し迷ってから、海神様の方を向き、丁寧に一礼した。
くすくすと含み笑いをしながら海神様が頷く。
≪愛し子。その童は、私に礼をもって接してくれたのだ。愛し子を通してお伺いを立てたかったのだよ。童よ。楽にして構わぬ。見ればお主の中にも、巫女が在る。どうか、気負いなく話しておくれ≫
「ありがとう、海神様。私は小春。お兄ちゃんの福童だよ。よろしくね。言の葉はまだ得意じゃないから、視て欲しいの」
意外にフランクに小春が挨拶をする。いや、小春がお伺いを立てることが珍しいのか。舎長やダイジョウですらそこまで畏まることは無かった。もしかして、『海神様』って呼んでいるから?それに、見て欲しいって何だ?
小春の言葉を受けて海神様は一つ頷き、手を広げる。
つい、と小春が海神様の前に出て正座した。
「小春?海神様?」
良く分からずに、問いかけるも、海神様に目線で制される。
黙って見てろってことか。この二人だし、危険は無いだろうけど…。
海神様が広げた右手が小春の頭に触れる。数秒ですぐに手を離し、≪あい、わかった≫とだけ呟いた。
小春はすくりと立ち上がり、定位置である俺の肩にぴょんと飛び乗ってくる。
「私がお兄ちゃんに遭ってからのこと、伝えたの」
「え、さっきのアレで?凄いな、便利」
つい軽口が口を出たが、もしかして出会いから伝えたのだろうか。
海神様、怒ったりしてない?自分で言うのも何だが、多分海神様は俺贔屓だと思うんだが。
そんな、とんちんかんなことが頭をよぎった俺とは違い、小春は落ち着いた声で先の話を促した。
「今後の事を、相談しようよ。お兄ちゃん」
あ、そうですね。さすが小春。しっかりしてる。気持ちを引き締めて、海神様に向き直す。問題点を一つずつ確認しないと。
「海神様、依代ってどんなのですか?」
≪ふむ。この雁木玉のような、年月をかけて霊力に触れ、内包できるようになった何か。鏡、刀、石などが良く有る≫
え、何それ。全く心当たりがない。
「…ええっと。今の時点で思いつかないのですが、見つからなかった場合はどうなりますか」
≪ふぅむ。…そうだな。私の回復がなされない。弱ったまま、外に在ることになる≫
えぇ…。回復できなかったら、現世帰れる?門をくぐる時に消滅とかしない?
「…お兄ちゃん。提案なんだけど。早々、依代が見つかるとは思えないし、見つかっても近々この郷を出るお兄ちゃんは、新しい『借り』を作らない方が良いと思うの。
だから、このまま私の雁木玉に居てもらえばどうかな。そもそも私、あんまり雁木玉に入らないし。最近入っていたのは、悪縁に対抗するためだったでしょ。それはもう片付いたのだから、入る理由もないよ。帰りも、雁木玉に入ってもらって、海に着いてから出てもらえば良いと思うの。
…それに、お兄ちゃんがこの郷にいるのはあと少し。なるべく一緒に居たいもの…」
最後の方にぽそりと落とされた言葉に、「そっか」と納得する。
うん。俺も少しでも長く小春と居たい。
でも、雁木玉は小春の大好きな銀さんが、小春の住処にとくれたものだ。小春にとっても大事なものだろう。そんな大事なものを貸してくれる小春にお礼を言うと、ゆるく顔を振る。
「ううん。雁木玉は、銀さんがお兄ちゃんにくれたものだよ。お兄ちゃんのもの。それにね、元からお兄ちゃんが現世に帰る時には雁木玉を持って行ってもらうつもりだったから」
少し寂しげに笑う小春は、それでもきっぱりと、俺が現世に帰る時のことを口にする。
本当に、小春は優しくて強い。けれどその強さはきっと小春の望んだものではないのだろう。
小春の頭を一撫ですると、
「…海神様。その雁木玉をそのまま使ってもらうことは出来ますか?」
海神様に視線を戻し、問いかける。
≪是≫
海神様は優しい顔で頷く。
≪この珠ならば愛し子への想いが詰まっておるゆえ、現世に戻り、この珠のことを忘れたとしても愛し子の本能が手放しはすまい。もし手放すことがあれば、愛し子の手元に戻るように私が働きかけよう。
なれど愛し子よ。私もずっと珠に入っているのは寂しい。せめてこの地に居る間だけでも日に一度、供物をくれぬだろうか。その際に出てくるゆえ、言の葉を交わして欲しい≫
「そりゃあ、もちろん!じゃあ、朝にお酒を捧げます。そのときに出てきて下さい。おはようって皆で言いましょう」
≪皆?≫
「はい。皆。海神様と小春と俺と、キッコウ柊です」
力強く頷いて、キッコウ柊を紹介する。
「窓側に有るこの植物が、キッコウ柊です。さわさわ揺れる葉擦れの音がとても心地よいんですよ。小春のお気に入りでもあります」
「そうなの!周りの空気も澄んでいて、とても居心地が良いの。優しい子だよ」
≪ほう。なるほど。賑やかなこと。では、皆の者。現世に帰るまでの束の間、宜しく頼む≫
「「はいっ」」




