74.黒い水の底で
黒い粘液のような水を阻む結界の中で、俺と小春は作戦会議のようなものを開いていた。
「小春。風に連なる者はすぐに来る。今日は朝市があるから、二、三人はいると思う。
問題は、コイツごと、俺たちが攻撃されるかもしれないこと。森津木さんが、上手く執成してくれれば助かるんだけどな…」
薄く張られた結界が光を点滅している。
何となく、それがとても安心できた。この中で光が無かったら、平静を保てる自身が無い。
「お兄ちゃん。森津木さん、雑貨屋の前から動かない。多分、郷の者に報せてくれているのだと思う。
それに、あの一瞬で森津木さん、結界を補強してくれた。森津木さんの守護も作用するから、きっとすぐに追いかけてきてくれるよ」
「へ?森津木さん、結界補強してくれてるの?うわあ、ラッキーだったな。なら大丈夫だろ。後で、チラシずしなり、二人で手伝おうな」
「あいっ」
俺が、この中から出た後のことを言ったのが嬉しかったのか、小春が笑ってくれた。
うん、小春は笑った顔が一番可愛い。
「小春。外から『制裁』としてコイツが攻撃されて弱ったらここから出るぞ」
バックの中を漁り、ダイジョウから貰った札を各一枚ずつ出す。
「『制裁』が一段落したら、この結界を破棄すると同時にこの氷の結界札を発動させることはできるか?」
「あい。できるよ。破棄する前に、この結界内で起動寸前まで展開させるから、大丈夫」
しっかりと頷く小春に、「さすが、小春」と頭を撫でる。
すり、と頭を寄せてくる小春は、どうやら落ち着いているようだ。
「この結界を発動させたら、俺たちを呑み込んでいるコイツは自分の内側から攻撃されることになる。この結界の特性は結界外側から触れたりするものは凍らすからな。そのままコイツが凍ったら、氷の結界を解除。すぐに炎の結界札を発動させて、内側から壊してもらおう」
残念ながら炎の結界札を発動させたことは無いから、どういったものが発動されるのかは分からない。だが、外に向けて攻撃はするはずだから、そこはダイジョウの攻撃的な性格を信じよう。
「…それで、お兄ちゃん。どうするの」
静かな小春の問いかけに頷いて、後ろを向く。
ここは海坊主の中。振り向いた先に、結界のすぐ外に、海神様は居た。
「もちろん、連れ出す一択だ。氷の結界を張る時に、こっちに引っ張り込む。
今ある結界を一部分だけ柔らかくすることは出来る?」
「…多分。頑張る。でも、穴は開くと思う。海神様を引っ張り込んだら後ろに倒れ込んでくれれば、新しい結界で押し出すよ」
「分かった。頼むな」
こんなチャンスは二度と無い。第三者が海坊主を攻撃する場に居合わせる。
『制裁』だから、それなりのダメージを海坊主が食らうまで攻撃は止まないだろう。確実に弱る海坊主の中に俺と小春が居て、海神様もいる。
海神様は黒い水の中、体の周りに薄い膜を纏いユラユラしながら体育座りで眠っている。
少し前に空で見た儚い雰囲気は形を潜め、しっかりとした本体を伴って、薄らぼんやりと発光しながら漂っている。
「海神様。海神様。起きてください」
ピクリとも反応しない海神様に小春が不安げな顔をする。
うん、わかっているよ。結界の外に音は届かない。だから、想いを乗せて伝えるんだ。言葉だけじゃ足りない。想いだけでも足りない。
だから。言葉に想いを乗せて紡ぐ。それは分かりやすい祈りの形。
「海神様。俺の祈りは届いていましたか。空で逢って以来、あなたの力になりたくて毎日、名を呼び祈りました。たった数日。でも、こんなに近い場所にいるんだ。今は、届いていますよね?」
結界の端に寄り、出来る限り海神様に近づく。
目と鼻の先に、かつて一緒にいた、泣き虫の神様がいる。
「約束を、交わしました。もう一度、会いに来てくれると。答えを聞いてくれると」
結界に手を置く。海神様の膝に重なるように。伝わるように。
「俺、やっぱり、海神様の傍にずっと居ることはできません。
でも、現世に戻ったら一度、あの海まで行きます。海神様も、そんなところに居て欲しくないです。あの海でもう一度逢いましょう、海神様。先ずはここから出ないと。
だから。起きて」
強く、強く意識して言葉を紡ぐ。
「起きて。海神様」
ゆらり、ゆらりと気泡が揺れて、組まれていた手が解ける。
流れに身を任せるようにゆうるりと、上体が反り、足が投げ出された。
海神様の、不思議な色をした髪が広がり、銀の光を纏って背中に戻っていく。
ゆっくりと悲し気な目が、開かれた。
≪愛し子、我が愛し子…≫
「はい、海神様」
≪会いたかった…。寂しかった…≫
あの夏と変わりない寂しげな声が流れ込んでくる。
「俺も、逢えて、起きてくれて、嬉しいです」
泣き笑いの様に、ふわりと微笑んで、海神様は首を振った。
≪ふふ、愛し子の想いが伝わってくる。ああ、暖かい。暖かいね、愛し子…。
…けれど、共には来てくれないのだろう?≫
海神様が望んだ答えでは無い、残酷な言葉を、俺は伝えたばかりだ。
誤魔化すことは出来ない。
「ごめんなさい。共には行けません」
ぷくぷくと気泡が生まれ、海神様の周りを回り始める。
結界越しに、そっと、海神様が手を重ねる。
≪そうか。そうだな。それが良い。それが、良いのだ≫
自分に言い聞かせるように反芻して、手を返し胸に当てた。
海神様の全身から伝わってくる寂しさに、胸の奥から何かがせりあがってきそうになるのを、無理やり呑み込む。ダメだ。安易な言葉をその場凌ぎの言葉を吐き出してはいけない。
ああ。でも、結界越しに重なっていた手が離れたときに沸き上がった寂しさは、きっと。
「…現世に帰ったら、俺、あの海に行きます。あなたに会いに行く。
だから海神様、居なくならないで。ここで消えないで」
≪ふふ、愛し子。変わらず、優しい≫
へにょりと困ったように笑った海神様が、あの日の面影に重なる。
穏やかではない感情をぐっと呑み込み、今必要な言葉を重ねる。
「海神様。ここを、出ましょう。あの海に、帰りましょう」
海神様が逡巡して口を開きかけたそのとき。
轟音と共に視界の色が変わった。
「お兄ちゃん!川の水がっ」
俺達を中心に川の水がぽっかりと抉りとられ、筒状に周囲に水の壁が出来ている。
中央が空洞の水柱の中に俺たちが居るのだ。それは海坊主が、水から出てその姿を晒しているということ。つまり、攻撃が来る!
身構える間もなく、結界がバァンと震えた。結界内の空気すらも上から波紋のように振動を伝える。
「うっ、小春!大丈夫か?」
「あい、大丈夫!」
「海神様はっ!?」
連続で叩き込まれ始めた攻撃に黒い水が泡立って、すぐそこの海神様が見えなくなっていた。
「海神様っ!耐えて、無事でいてくれっ」
心の底からの祈りを、言の葉に乗せて送る。
「海神様、聞いて!攻撃が止んだ瞬間、この結界を張り替えるっ。その一瞬で、こっちに入って!」
言い終わるか否かのタイミングで攻撃が止んだ。
「海神様っ!今っ」
泡立つ黒い水の向こう、海神様が直前までいた場所に向けて手を伸ばす。
ぶにっと弾力のある壁を突き破り、掴んだものを全力で引っ張り、勢いでそのまま後ろに倒れ込む。俺が開けた穴から黒い水が入ってきたが、新しく結界が張られる瞬間に押し出された。
ドォンという衝撃と共に結界の外が氷塊で埋め尽くされる。
目前に出来上がっている黒い氷塊をしげしげとみて感嘆する。流石ダイジョウ。様付で呼ばれるだけの事はある。
「海神様、ごめん、すぐに立って」
倒れた俺の上に乗っている海神様を確認して、すぐに退いてもらう。
良かった。海神様だった。違うものだったらどうしようかと。
「海神様、今からここを出ます。
今ある氷の結界を破棄して、炎の結界にします。
外側のものを攻撃するから、コイツの凍った体内を砕くか、溶かすかしてくれるはず。その隙に出てしまいましょう」
ぴょいと小春が肩に乗ってくる。え、肩に乗るの?
「小春、危なくないか。川に流されることになるだろうから、結界張ったらすぐに雁木玉に入った方が…」
「良いの。まだ少し結界張れるし、冬の川で脂肪がついてないお兄ちゃん泳がすなんてとんでもない。頑張るから、急いで岸まで行って」
「あ、はい」
有無を言わせない小春の言葉に頷く。
いまいち、状況を掴めていないのか、ぽやっと立ったままの海神様の手を取り、がっちりと腰を掴む。
「すいません、離れないように掴ませてもらいます。出来れば海神様も俺の肩なり腕なり掴んでいてください」
時間がないので、答えは待たない。
「お兄ちゃん、結界を少し上にずらして展開するよ。固定せずに、移動できるようにしてみるから、衝撃があるかもしれない」
小春の忠告と同時に、氷の結界内に赤い陣が広がる。
「いくよっ」
次の瞬間起こったまさかの爆発に、結界は俺たちを包んだまま一度地面に叩きつけられて跳ね返り、その勢いを加速させて海坊主を突き抜け上空に躍り出た。
それはもう、超剛球が強打者に打たれたかのように見事なスピードで。
「こわっ!うわっ!」
ダイジョウの攻撃的な性格を信じよう、とか思ってた少し前の自分に言いたい。現実を見ろ、と。ダイジョウ、どれだけ攻撃のポテンシャル秘めてんの?結界にこの攻撃力いる?これ、結界に見せかけたただの攻撃じゃない?今、結界で空飛ぶ羽目になってんだけど、おかしくない?
「お兄ちゃんとの縁、切らせてもらうよっ」
小春は小春で、海坊主が弱ったこの機会を逃すわけが無く、盛大に腕を振っている。
俺が密かに大混乱しているのに比べ、何と頼もしいことだろう。あれ、縁切ってるんだろうな。俺には見えないけど。うん、だいぶ落ち着いた。
けれども、落ち着いたからといって現状が変わるはずもなく。結界は空に放物線を描き、速度を落としながら随分下流の河川敷に激突した。




