53.空の御殿
「まさかここまで脆弱とは。恐れ入る」
「お前がお兄ちゃんを弱らしたくせに」
「小童が勝手に弱っただけのこと」
「齢を重ねすぎ、人だった頃の記憶など、すっとんでいるだけでしょう?
己のかつての体のことも思い出せないほどに」
何やら枕元で物騒な会話が繰り広げられている。
「…小春」
「!お兄ちゃんっ。ごめんなさい、煩かった?でも、気が付いてよかった」
手を伸ばすと人差し指にギュッと抱き着いてくる。
「いや、俺こそごめん。心配かけたな」
ダイジョウに視線を向ける。
さて。どうしたもんか。のそりと上体を起こす。
腹がひきつった。何だ?ぶつけでもしたか?放り投げられたときだろうか。痛い。
「お兄ちゃん?」
小春が不安げに呼んでくる。腹は後だな。
「小春、ここは空にある御殿なんだ。どうやったら帰れると思う?」
え、と小春が瞬きをする。
「うーんと、私はお兄ちゃんを運べないから、誰かに返してもらうしかないけど…。
誰かを外から呼ぶ手段を考えないと」
「通信手段がないもんなあ」
「小童。何故帰りなど気にしておる。それよりも彼の方を待たせてある。
支度をせい」
こいつは俺が言うことを聞くとでも思っているのか。
言うことを聞いたとして、無事に帰れる保証もないというのに。送ってもらえたとして、帰り際に印を付けられるのが落ちだ。
今は機嫌を損ねても、その『彼の方』とやらにあうまでは危害を加えられないだろう。まあ、後でなんかされそうだけど。
「お兄ちゃん、ここを探索してみようか」
「それを、ここでいう小春は大物だなあ」
「だって、そいつ、ずっといるよ」
「…それも、気持ち悪いな…」
「あ」小春の間の抜けた声が聞こえた。
「ゔっ」
「埒があかん。連れていく」
ダイジョウが再び俺を担いだ。いつ近寄ったのか、いつ担がれたのか、やっぱりちっとも分からなかった。
「お兄ちゃんっ」
小春がぴょいっと乗ってくる。
「大丈夫?」
ダイジョウとの接触部分、特に体重のかかっている腹が痛い。
これは、間違いない。ケガをしている痛さだ。
「小春、腹が痛い」
「お腹?…上げたって聞いた。お腹空いたの?」
「違う、と思う」
ダイジョウは大股でズンズンと進んでいく。歩く速度も速い。
しまった、水筒とタッパーが入った紙袋、あの部屋に置いてきた。
振動で腹に負荷がかかるたびに、痛むので手をついて上体を上げる。
幾秒もしないうちに、手のひらが熱くなる。あ、こいつの自熱だ!
小春が気付いたようで結界を張ってくれたけれど、腹の左側だけに留まっている。
「お兄ちゃん、火傷だよね?ごめんなさい、気付かなかった。結界も大きいのは張れないの」
「いや、助かった」
腹の左側に体重をかける。掌は服の袖を伸ばして、直に触れないようにすれば大分平気だ。
腹に比べればましだが、抱えられている足も熱い。
スッとダイジョウがかがんだ。
「遅参致しました。ダイジョウでございます。件の者、連れ参りました」
「おお、待っておったぞ。どれ、入って来い」
中に入ると上座の御簾の向こうに一人男がいる。
ダイジョウが前回よりは丁寧に俺を降ろした。
「女房どもはどうされました。侍っておらぬようですが」
「何、格式ばってしもうては、肩肘もはろう」
「さようで。ここに侵入出来る者は多くもないですが、少し不用心では」
「来たら喜んで相手をしよう。鈍っていけぬ」
うーん。この人、喋っていい人かな。悪い人かな。
俺の意思を無視して呼びつけた時点で心象は悪いけど、上の立場なら、下々の者の意思なんて思いつきもしないかもしれない。
いや、その時点でアウトか。でも口きかなかったら祟られるしなあ。
小さい声で話しかける。
「小春、小春、祟りってどんなの?」
「お兄ちゃん、アイツに脅されているの?」
「ああ。粗相が有ったら祟られるんだって。で、祟りってどんなの?」
「うぅんと、病気にしたり、気が狂ったり、不慮の事故にあったり、かなぁ。とりあえず不幸になるよ」
「不幸。なるほど。アイツ、人の不幸好きそうだもんな」
「聞こえておるぞ、小童」
半眼で睨まれても、今更である。
「返事もせぬか。最低限の礼すら知らんと見える」
「お兄ちゃんの意思の確認もせずに攫ったうえで、体調まで崩させて何を言っているの。
先に礼を欠いたのはどちらか、それすら分からない?」
「下賤に払う礼などない」
あ、こいつ嫌な奴だ。
「ははは、これは嫌われておるなぁ。これ童。
私が約束しよう。我が興味が満たされれば、生きたまま送り返そう。手足をもいだり、祟ったりはせぬよ」
「本当?切ったりもしない?」
「ああ」
俺がモタモタしているうちに小春が話をつけてくれる。
…小春、不甲斐なくてごめんなぁ。
「そこな迷い人よ、そなたのことはフミツキから聞いておる。
近いうちに、外つ国の詩歌の訳を皆でしようという話があるが、それも、そなたの単語訳を組み立てるというではないか。
年甲斐もなく気もそぞろに、指折り楽しみにしておってな」
あ、書物愛好仲間か、この人。
「それに加え、年の瀬前からだったか、何やら女どもが賑やかに騒いでおる。
これは久しくなかったことで、私も嬉しくなりわけを聞いたのだ。
するとな、迷い人が夜に読む詩歌が、分けも分からんというのに、響くというのだ」
もしかして、…姫ちゃんのポエム、ではなかろうか。
え、俺、姫ちゃんの銀さんへの迸るパトスのポエムを訳しろとか言われちゃう?
「そこで、だ。迷い人が読む詩歌の単語訳を頼みたい。
何、フミツキのもとでしておることと、そう差異はなかろう。言葉遣いや礼儀作法は目を瞑ろう。迷い人に求めるのは酷というもの。
さて。まずは『りんご』について、知っておることを申せ」
あ、良かった。訳は自分でしてくれるんだ。
でも、りんごかあ。アダムとイブから説明したほうが良いのかな。
確認すると、知識はあっても困るものではないから、洗いざらい話した方が良いみたいで、しょっぱなのりんごから、かなり説明に時間を要した。
りんご、ムース、既読スルー、ぼっち、スターダスト、検索などの説明を求められ、簡単な英単語の訳をしたあたりで小春が待ったをかけた。
「お兄ちゃん、約束の時刻、夕方の五時でしょ?
外、日が落ちているもの。七時くらいになっていると思う」
あ。しまった。小鳥少年と森津木さん、腹ペコで待ってる。
「うん?そなた、先約があったのか?それは失礼をしたな。
今日のところは帰ると良い。明日はどうだ、来れぬか。」
「明日の午後から日が暮れるまでなら大丈夫です」
御簾の向こうの人は膝を叩いて喜ぶ。
この人も、最初と比べて、話が通じるようになったし、また会うことに嫌悪感は無い。
「そうか。では明日。日が中天の頃、迎えを遣ろう。誰ぞ、客人を送るように」
ダイジョウがスッと出てくる。
「オオキ。オオキならば安心ぞ。頼んだ」
え。ダイジョウじゃないの、オオキなの?
オオキは御殿の入り口まで歩いて案内してくれ、水筒とタッパーが入った袋も返してくれた。帰りは最初から結界も張ってくれる。
もしかしなくても、行きのことを気にしているのだろうか。
思いの外、快適な空の旅で周囲の景色を楽しむ余裕まである。
行きは意識が朦朧としていて見ていなかったが、この御殿は大通りの突き当りにあった。
御殿の前にはいくつもの屋敷が居を構え、大通りに面して店が軒を連ねている。一帯に広がる景色は映画のセットのような、昔っぽい古都。
大通りの先は、行きに見た鳥居がある。つまり、鳥居の先には古都と表現しても良いような街が広がっているのだ。
すぐに鳥居を潜り、古都は見えなくなり眼下に山が広がった。
鬼の集落などもあるだろうに、下にはまばらな光が見えるだけで、薄暗い。けれど、空が澄んで星が近くに瞬いている。逆に、星明りが明るくて、下の木々がはっきりと見えるのには驚いた。
雁木玉に渋々入った小春にも、見せたいほどに綺麗な星空。
郷にきてから、夜に星など見たことが無かったので、新しい発見だ。
オオキはアパートの前で降ろしてくれて、懐から小袋を投げ渡してきた。
「火傷の薬だ。朝晩塗ると良い。明日、痛くて寝込まれてはかなわんからな」
アパートから「岩兄ちゃんっ」と小鳥少年の声が響く。
振り向くと欄干から小鳥少年が飛び降りているところだった。え。ええ。小鳥少年、そんなこと出来るんだ?
「ではな」と背後でオオキの声が聞こえ、気配が消えると同時に腹にタックルを受ける。
「ぐぅっ」
「どこに行ってたんだよ!お腹減ったっ、シチュー早くっ」
ああ、小鳥少年に心配かけたみたいだ。夜だし、早く部屋に入らないと。
そう言いたいのに、腹が痛くて声が出ない。
「…岩兄ちゃん?」
アパートの部屋から出て来た森津木さんが階段を下りてくる。
「小鳥、ちょっと待って。岩木、小春を出して」
喋ることは出来ないが、それくらいはできる。小春、出ておいで。
「お兄ちゃんっ。あ、小鳥お兄ちゃん、離れてっ。お兄ちゃんに触らないでっ。
火傷をしているのっ」




