22異動
「岩木君、いきなりだけど、英語できる?」
「は?」
「実は、資料室から苦情が出てね。迷い人のアルバイト、ファイリングに二人、計算にさっきの子を入れて二人。事務室で独占しちゃってて。
翻訳のアルバイトに誰も来ない。一人回してくれって、嘆願されちゃったのよ」
「英語ですか…。どうでしょう、苦手意識はありませんが、出来るかは分かりません」
「そう。じゃあ、やるだけやってみてくれない?ファイリングの二人は、離れる気が無い。
今日来た計算希望の彼は五月蠅いから、資料室には向いてない。消去法で君しかいないのよ。
今の時点で岩木君が確認してくれた書類は二十二枚。一旦ここで計算のアルバイトを切り上げて。
できるかどうか分からない、と言うことだから、成果給では割に合わないでしょう。今日だけ時間給で一時間千円で受付には話を通すから」
それなら。
「分かりました」
コダマさんに連れられて、管理舎の二階に来る。
「事務室のコダマです。岩木君が、事務室長の説得に応じたので紹介に来ました」
「来てくれましたか。お待ちしておりました。
私はフミツキと呼ばれるもの。此度は強引に誘ってしまい、申し訳ありません」
長い黒髪の女性が、謝ってくる。
前髪も長すぎて、顔が見えないが、綺麗な卵型の輪郭をしているし、口元も上品だ。
美女かもしれない。
「はじめまして、こんにちは。迷い人の岩木です。翻訳ができるか分かりませんが、頑張らせていただきます」
「小春です。静かにするよ」
「あら、丁寧なご挨拶、嬉しく思います」
「では、フミツキさん、よろしく願いしますね」
「こちらこそ、有難うございました。事務室長にもよろしくお伝えください」
資料室は、フミツキさんしかおらず、比較的ゆったりとした時間が流れている。
ドイツ語やロシア語は分からない事を伝え、英語も、翻訳と言うより、辞書を見つつの訳になると伝える。
それでもいいと、英語がびっしり書かれた紙を出してきた。
「翻訳本を買ったりはしないのですか」
「有る本ならば。けれど、翻訳者が個性的ですと、つい、他の方の翻訳も読みたくなってしまって」
それは、個人の嗜好では。管理舎内の仕事なのか?
「この資料室の本は、この郷の数少ない娯楽の一つ、と申しましょうか。
何故、今も資料室と呼ばれるのか、常々不思議に思っております。図書室で、良いのではないか、と。
初期の時分は農業のことを記した書物や、酒造の書物など、手順を紹介した書物が主流でしたから、それで良かったのでしょうけれど。
時の移ろいに合わせて、姿かたちは変わるもの。この資料室もまたその一つ。
手順書が読まれなくなり、娯楽としての特色が強い書物が主流になりつつあります。
ですが、書物を好き好んで読む者はごく一部。
そういった者たちは、私を含め考察を好むのでございます。
ここは、開かれた資料室。
利用していただける方たちの望みに沿う書物を増やしていくのも私の、務めであれば」
長い。
それにしても、俺の疑問は顔に出ていたのか。気を付けないと。でも、良いこと聞いた。最初はハウツー本がメインだったなら。
「すみません、迷い人でも、書物は読めますか。お菓子のレシピ本を見たいのです」
「和菓子かしら、洋菓子かしら、それとも最近の初心者用の簡単お菓子本かしら」
「最近の初心者用からお願いします」
意外にもレシピ本は充実しているらしかった。
翻訳のバイトは、フミツキさんとの二人三脚の作業だ。
翻訳しているのは英語で書かれた詩集みたいで、大元はフランスの詩集かもしれない。フランスの地名っぽい名詞が出てくる。
俺が翻訳なんて、高度な真似ができるわけもないので、本当にただの訳だ。
文法だって、間違っているところも有るだろうから、単語訳を書き込んで、その下に一文の訳を書いていく。
それをフミツキさんが、吟味して綺麗な日本語に直していくといった流れである。
外国の常識でかかれた生活習慣などは、俺が知る限り、調べれる限り、注釈として訳の横に書き込んでいく。
意外に始めてみたら、面白くなってきて、英語の勉強にもなっている気がする。十一時半から初めて今は十二時半。
一旦休憩にしましょ、とフミツキさんが昼休みにしてくれた。
資料室内で食べるなら、入り口の席で。と、教えられたものの、事務室の方が気になったので、今日は事務室に戻ってみる。コダマさんたち、もうお昼食べたかな。
事務室の扉をノックしてそっと開ける。
近くにいた人に、コダマさんいますかと聞いてみると、すぐにコダマさんを呼んでくれた。
「岩木君、何、もしかしてお昼食べに来た?」
「はい。もう食べちゃいました?」
「食べちゃったなあ。でも、センジュたちは今食べてるから、混ぜてもらいなよ」
お言葉に甘えて、休憩室に入る。
「お。岩木が戻って来た」
「あら、岩木君、お昼食べに来たの?座って」
すぐにツバメとセンジュさんが席を開けてくれる。
「さっきは、騒いじゃって、すみませんでした」
お弁当を広げながら謝る。皆の手を確実に止めてしまっていたのだ、詫びておかねば。
「岩木君は何も悪くないよ。ちゃっかり、いい目みた奴もいるし」
「おう、お前、結構美味かったけど、栄養足りてねえぞ。もっとしっかり食って出直して来い」
まったく悪びれないツバメの態度に逆に安心する。
「お兄ちゃん、栄養足りてないの?」
小春がそっと、自分の分のみかんを差し出そうとしてくる。
「小春、良いから。それは小春が食べて」
「アンタも余計なこと言わないの」
ツバメがセンジュさんに殴られた。いい気味である。
「岩木君、翻訳の方はどう?できそう?」
「んー、ぼちぼちです。フミツキさんがどう評価するかは分かりませんけど。
今のところ、フミツキさんと二人三脚で頑張ってますよ」
「あちゃー、そっか」
「こりゃ多分、このまま資料室に引っ張られるな。つーことは、あの坊主が計算のバイトで入るのか」
「あ、それそれ。
あの少年、ルールの説明を聞いてなかったんじゃないかと思って。あの少年に、ルールの説明もしようと下りて来たんですよ」
「別に良いんじゃない?説明を聞いてないのは、あの子の自業自得だもの。
わざわざ教えても、また突っかかられるだけじゃない」
「センジュの言う通りだ。それに、お前アパート組だろ?
あいつが他の寮組と話していれば、把握していて当然の内容だぞ?
寮組が放置しているのに、わざわざアパートのお前が出ることもないんじゃないか?」
「たしかに、少年については良い感情を持ってないんですが。
だからといって、あのまま喰われたじゃ、寝覚めが悪いんですよ」
ふー、とツバメが息を吐いた。
「とことん、甘いな、お前。まあ、今日は、啜っちまったし、詫びだ。
午後からあの坊主が事務室に来たら、俺がルールの説明をしておいてやるよ」
「ツバメ!ありがとう!」
「いつから呼び捨てになったよ、お前!」
「え、初日から」




