第8話:最初から、私じゃなかった
部屋は、静かだった。
窓の外は曇り空。
時間は昼を過ぎているのに、どこか薄暗い。
(ちょうどいい)
そう思う。
今の気分に、よく合っていた。
テーブルの上に、スマートフォンが置いてある。
画面は暗い。
通知もない。
(当然か)
少し前までなら、気にしていた。
連絡が来るかどうか。
気にかけてくれるかどうか。
でも今は——
(どうでもいい)
本当に、そう思えた。
しばらく眺めてから、手に取る。
指先が、少しだけ止まる。
(見る必要ある?)
一瞬だけ迷う。
でも。
(終わらせるなら、ちゃんと見た方がいい)
そう判断する。
ロックを解除する。
画面が明るくなる。
指は迷わず、トーク履歴を開いた。
凛花
その名前。
何度も見てきたはずなのに、今はまったく違うものに見える。
画面をスクロールする。
メッセージの履歴が、ずらりと並ぶ。
日付。
時間。
内容。
ひとつひとつを、淡々と追っていく。
『今日も助かった、ありがとう』
『やっぱり恒一じゃないとダメ』
『無理してない?大丈夫?』
(……優しい)
そのやり取りは、想像以上に“親密”だった。
少しだけ、遡る。
『あの人、また何か言ってた?』
『気にしなくていいよ』
『あの子、鈍いから大丈夫』
その一文で、指が止まる。
(……ああ)
静かに、理解する。
“あの子”。
それが、自分のことだと。
(知ってたんだ)
全部。
結婚していることも。
自分の存在も。
それでも。
『やっぱり恒一が一番安心する』
『離れたくないな』
言葉は、途切れない。
続いていく。
時間を遡るほど、その関係は濃くなっていく。
(いつから)
さらにスクロールする。
日付が変わる。
もっと前へ。
そして。
婚約前のやり取りが、目に入る。
(……ここ)
開く。
『親に言われたから、仕方ないんだよ』
『でも、お前のことは嫌いじゃない』
『ちゃんと続けるから』
(……え)
一瞬、意味が分からなかった。
もう一度読む。
ゆっくりと。
一文字ずつ。
(これ)
婚約の、直前。
つまり——
(最初から)
理解が、ゆっくりと形になる。
(私じゃなかった)
最初から。
ずっと。
(あの人だったんだ)
胸の奥が、静かに沈む。
でも、不思議と痛みはない。
(そっか)
それだけだった。
これまでの違和感。
優しさの差。
視線の向き。
すべてが、一本に繋がる。
(全部、ちゃんとしてた)
おかしかったのは、状況じゃない。
(私の認識)
それだけだった。
(祖母が選んだから、正しい)
そう思い込んで。
現実を見ないようにしていただけ。
(……終わりだ)
はっきりと、そう思う。
もう迷いはない。
怒りも、ない。
悲しみも、ない。
ただ。
(理解した)
それだけ。
スマートフォンの画面を閉じる。
部屋は、また静かになる。
少しだけ、息を吐く。
(ちゃんと終われる)
その確信があった。
ゆっくりと立ち上がる。
机の上に視線を向ける。
紙と、ペン。
(準備しよう)
離婚届。
仕事。
住む場所。
やることは、はっきりしている。
(もう迷わない)
その一歩を踏み出す。
誰のためでもない。
(私のために)
その言葉が、静かに胸に残った。




