第5話:その一言で、すべてが終わった
雨は、思っていたよりも強かった。
ぽつぽつと降り始めたはずなのに、気づけば地面を叩く音がはっきりと聞こえるほどになっている。
(傘、持ってくればよかった)
ぼんやりと、そんなことを思う。
服が少しずつ濡れていく。
髪から水滴が落ちる。
でも、それを気にする余裕はなかった。
体が、重い。
朝から続いていた違和感が、はっきりとした“異常”に変わり始めていた。
(……大丈夫)
自分に言い聞かせる。
(少し休めば)
そう思いながら、一歩踏み出す。
その瞬間。
つるり、と。
(え)
足元が滑る。
バランスが崩れる。
とっさに手を伸ばす。
でも、何も掴めない。
次の瞬間。
強い衝撃が、全身に走った。
「……っ」
息が、詰まる。
視界が一瞬だけ白くなって、そのあとゆっくりと色を取り戻す。
冷たい地面の感触。
背中に走る鈍い痛み。
(……動かない)
腕に力を入れる。
でも、思うように動かない。
指先が、わずかに震えるだけ。
(……うそ)
頭の中が、少しずつ混乱していく。
遠くで誰かの声がする。
でも、何を言っているのか分からない。
雨音が、やけに大きく響く。
(こわい)
胸の奥から、じわりと何かが広がる。
(……こわい)
その感情は、ゆっくりと確かな形を持ち始める。
一人だ。
その事実が、遅れて実感に変わる。
(誰も、いない)
急に、息が浅くなる。
視界が揺れる。
(どうしよう)
震える手で、バッグを探る。
スマートフォン。
なんとか掴む。
指先がうまく動かない。
画面がぼやける。
それでも、必死に名前を探す。
スクロール。
止まる。
高瀬恒一
迷わず、押す。
呼び出し音。
一回。
二回。
(お願い……出て)
三回。
四回。
時間が、やけに長く感じる。
(出て)
五回目のコールで。
「……どうした?」
繋がった。
いつもと同じ声。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが一気にほどける。
「こういち……」
声が、うまく出ない。
喉が、震える。
「事故に、あって……」
言葉が途切れる。
息が、続かない。
「どこだ」
少しだけ、声の調子が変わる。
でも、それだけだった。
「わかんない……」
「動けなくて……」
必死に言葉を繋ぐ。
「来て……」
それだけを、なんとか絞り出す。
「こわいの……」
沈黙。
雨の音だけが、耳に残る。
(来てくれるよね)
当然のように思う。
だって。
夫だから。
「……悪い」
その一言で、何かが止まった。
「今、無理なんだ」
理解が、追いつかない。
「凛花が体調崩してて」
(ああ)
すべてが、繋がる。
「一人で不安がってるから」
(そっか)
「だから、そっち行く」
言葉の意味が、少し遅れて胸に落ちる。
「……え」
自分の声が、やけに遠く感じる。
「お前、大したことないだろ?」
その一言は、あまりにも軽かった。
「救急車呼べばいいし」
(来ないんだ)
(私じゃなくて)
(あの人を選ぶんだ)
雨が、頬を伝う。
それが涙なのかどうか、もう分からない。
胸の奥で、何かが静かに崩れていく。
音はしない。
でも、確実に壊れているのが分かる。
「……わかった」
それだけを言う。
それ以上、何も言えなかった。
何も、出てこなかった。
通話が切れる。
画面が暗くなる。
雨音だけが、残る。
空を見上げる。
灰色の空。
ぼやける視界。
(終わったんだ)
その言葉が、静かに浮かぶ。
悲しくもなかった。
悔しくもなかった。
ただ、はっきりと分かった。
(私は)
(選ばれなかった)
それだけだった。
そして——
(もう、いい)
その一言が、心の奥に落ちた。




