第10話:もう大丈夫だから
玄関の鍵が回る音がした。
カチ、と乾いた音。
それだけで、誰が帰ってきたのか分かる。
高瀬恒一。
数日ぶりだった。
澪はリビングの椅子に座ったまま、視線を上げる。
(久しぶりだな)
そんな感覚すら、どこか他人事だった。
「……ただいま」
声は、少しだけ疲れていた。
でも、それだけ。
「おかえりなさい」
自然に言葉が出る。
昔と同じように。
でも、その中身はもう違っていた。
恒一は靴を脱ぎながら、ちらりとこちらを見る。
「もう動けるのか」
短い一言。
心配の色は、ほとんどない。
「うん、大丈夫」
澪は淡々と答える。
それ以上、会話は続かない。
しばらくの沈黙。
恒一がリビングに入ってくる。
その動きに合わせて、澪はゆっくりと立ち上がった。
机の上に置いてあったものを手に取る。
白い紙。
離婚届。
それを、差し出す。
「これ、書いて」
声は、驚くほど静かだった。
感情は、ほとんど乗っていない。
恒一の動きが止まる。
「……は?」
間の抜けた声。
「離婚するから」
簡潔に伝える。
それ以上でも、それ以下でもない。
数秒の沈黙。
恒一は紙を見て、澪を見る。
「……何言ってんだ」
信じていないような声。
「本気だけど」
澪は視線を逸らさずに言う。
「事故の日のこと、覚えてる?」
問いかける。
恒一は一瞬だけ、言葉に詰まる。
「……ああ」
短く答える。
「私、動けなかったんだ」
淡々と続ける。
「怖くて、電話した」
「来てほしいって、言った」
一つ一つ、事実を並べる。
責めるような言い方ではない。
ただの確認。
「でも、来なかったよね」
静かな声。
恒一は、目を逸らす。
「……仕方なかっただろ」
小さく言う。
「凛花が——」
その名前が出た瞬間。
澪は、わずかに息を吐いた。
(やっぱり)
「うん、知ってる」
それだけを返す。
恒一が、少しだけ顔を上げる。
「知ってるって……何を」
「全部」
言葉は短い。
でも、それで十分だった。
「最初から、あの人だったんでしょ」
核心を突く。
恒一の表情が、わずかに揺れる。
否定しない。
できない。
それが答えだった。
「……それでも」
何か言おうとする。
でも、言葉が続かない。
澪はそれを、静かに見ていた。
(もういい)
そう思う。
「別に責めるつもりはないよ」
本心だった。
怒りも、恨みも、もうない。
「ただ」
一呼吸置く。
「もう一緒にいる理由がないだけ」
それだけ。
それが、すべてだった。
恒一は、何も言えない。
視線が揺れる。
「……やり直せないか」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
(遅いな)
そう思う。
ほんの少し前なら。
この一言で、全部を許していたかもしれない。
でも。
今は違う。
澪は、ゆっくりと首を横に振る。
「ごめんね」
静かな声。
「もう大丈夫なの」
その言葉に、嘘はなかった。
「あなたがいなくても」
はっきりと伝える。
恒一の顔が、固まる。
「……どういう意味だよ」
理解できない、という顔。
「そのままの意味」
澪は少しだけ微笑んだ。
「一人でも、ちゃんと生きていけるから」
その言葉は、以前の自分では絶対に言えなかった。
でも今は、違う。
「だから、終わりにしよう」
それで、すべてだった。
長い沈黙が落ちる。
やがて。
恒一は、ゆっくりとペンを取った。
何も言わずに、名前を書く。
その手は、少しだけ震えていた。
書き終える。
紙を、机に戻す。
それで、終わった。
あまりにも、あっけなく。
でも。
(これでいい)
澪はそう思った。
紙を受け取る。
丁寧に畳む。
「ありがとう」
自然に言葉が出る。
皮肉でも、嫌味でもない。
本当に、それでよかった。
恒一は何も答えなかった。
ただ、立ち尽くしている。
澪はその横を通り過ぎる。
玄関へ向かう。
靴を履く。
ドアに手をかける。
一瞬だけ、立ち止まる。
振り返らない。
(終わった)
その実感が、静かに広がる。
ドアを開ける。
外の空気が流れ込む。
一歩、踏み出す。
それだけで。
すべてが、変わった気がした。




