第四話
前回のあらすじ
鎌谷から有田春香の行先を聞きだした坂本たちは、次の目的地である廃墟されたビルへと急ぐ。その名も「総合センター」。地域の学校行事などで会場を貸し出していたが、採算が取れずに二年前に閉鎖されていた。
坂本はそのビルの中で、とある女性の影を見る。彼はすぐさまその影を追ったが、見つかったのは一つの遺体だけであった。
「……センター職員の書き込みか。信憑性はあまりないが、今は四の五の言ってられんな」
山崎がネットの海から見つけ出した総合センターに関する書き込みをホワイトボードに記した後、松本はため息混じりにそう言った。おそらく坂本と山崎も同じ心持ちだろうが、やはり同じく四の五の言ってはいられないのだ。……身元不明の死体が発見された。ただそれだけで、有田春香失踪事件はさらに複雑になっていく。坂本がボードの余白に目を向けた時、山崎が「あの」と声をあげた。
「どうした?」
「ひっくり返すようなことを言うのは気が引けるんですが……。そもそも、あの死体と有田春香さんって関係あるんですか?確かに鎌谷さんからの証言で、彼女をビル付近で降ろしたことまでは分かっています。しかし、彼女がビルに立ち入ったとはわかっていないじゃないですか。……二つの事件は、完全に別件の可能性だってありますよ」
「……山崎の言うとおりだ。ひとまず、この件は分けて考えてみよう。……とはいっても、彼女に関しての新しい情報は一個もないな……」
「坂本、鎌谷からの連絡は来てないか?」
坂本は着信履歴を見てみるが、鎌谷からの物らしき着信はない。彼は首を横に振って答えた。
「そうか……。まずい、手詰まりだな。有田春香の目撃証言もなければ、痕跡がどこかにあるわけでもない。……そこらじゅうのコンビニに監視カメラを見せてもらうぐらいしかできないかもな」
最も恐れていた最悪の場合が訪れた。際限のない総当たりで手がかりを見つけ出さなければならなくなってしまったのだ。だからと言って諦めてしまうほど、彼らはこの仕事に対して適当な態度でいる訳ではない。だが、それとこれは別だ。……彼らは目の前で発生してしまった問題から逃げるように、次の問題である総合センターについて話し始めた。
「……あのビルは、地域のイベントに場所を貸し出すことで利益を上げていたと考えていいでしょう。落語の講演や地元中学校の演奏会など、大抵のイベントが行われていたようです。……その中で、怪しいイベントの会場にもなっていたみたいですが」
ボードに記された「怪しい集団が行っていた何か」という文言に坂本は視線を送る。総合センターのセンター長のみがイベントに関わり、職員には顔を伏せさせてまで関係者の顔を見せないようにしていたという。
「……まるで、宗教みたいですね」
そうつぶやく山崎の言葉に、坂本は新たな手掛かりのきっかけを見た。
「もしかすると、本当に宗教だったのかもしれない」
「え?」
「人目に見られちゃいけない儀式。そうでなくとも、信者同士の会合なんかで使われていたかもしれない。……そうでもないと、わざわざ顔を伏せさせていたってところに説明がつかない」
「……確証はないが、今はそう言うことにしておくしかないな。……今はあまりにも情報がなさすぎる」
松本は前かがみになっていた姿勢を正しながらそう言った。彼は背筋を伸ばし、関節から軽快な音を鳴らしている。そこにドアをノックする音が聞こえて来た。坂本がドアを開けると、彼らの通報に駆け付けた同僚、藤原がいた。
「何か用か?」
「忘れたのか?解剖が終わったら教えるっていっただろ」
「……ああ、そう言えばそうだったな。入れよ」
「お邪魔させてもらうよ」
藤原はもともと松本と面識があったらしく、彼と顔を合わせると「どうも、お邪魔します」と頭を下げて挨拶している。一方の山崎は人見知り故、軽く会釈するだけにとどめていた。彼は松本に促されるまま席に着くと、脇に抱えていた資料をテーブルの上に広げる。
「あの死体ですが、身元が判明しました」
「何?誰かわかったのか」
「はい。……四年前に捜索願が出されていた、橋本恵さんで間違いないかと。……当時、行方不明の彼女を捜索するにあたって様々な情報を家族から受け取っていたんです」
「なるほど、行方不明の女性のDNAを片っ端から照合したのか」
「そう言うことです。……死因は服毒によるものの可能性が高いですね」
彼女の身元の明確さに対し、死因はどこかはっきりとしない。通報前に確かめたが、遺体の損傷はそれほど激しくはなかった。判別の妨げになるような事柄などないはずである。坂本は率直に疑問をぶつけた。
「……なんだかはっきりしない言い方だな。可能性が高いってどういうことだ。……確かに、一目見て特別な外傷はなかったように思えたが」
「君の言うとおりだ。彼女の身体には死因になるような外傷どころか、暴行を受けていたような跡もなかった。直接的な外傷が死因でないのはすぐに分かった。次に、胃の内容物だがここが問題だった。……言い忘れていたが、彼女は死後一日も経過していない」
「……は?」
「彼女は今日、おそらく数時間前に殺された」
特別相談室の中は静寂に包まれた。到底信じられるものではない。坂本はすぐに反論する。
「だが、お前も見ただろ。あのビルは二年前に閉鎖しているし、簡単には中に入れないようにバリケードまで設置されていた。その中で、俺たちが来る数時間前に殺人だと?そんなバカなこと……」
「バカなことだというのは僕もわかってる。……けど、解剖の結果はそう言ってるんだ。君もわかっているだろう、今の警察の技術力というものを。……バカなことかも知れないが、それが事実だ」
坂本はまだ何か言いたげではあったが、これ以上の問答は無駄だと理解していた。座っていたソファからわずかに身を乗り出しただけで、すぐに腰を落ち着けなおした。深呼吸している彼の代わりに、山崎が口を開く。
「……その、ビル内の捜査の予定は?」
「先ほどの通報の受けて、少人数ではあるがすでにビル内の捜査を始めているよ。……けれど、犯人の発見についてはあまり期待できないだろうね。すでに遠くに逃げられているだろうさ」
「では、ビル自体の調査はするんですか?例えば、以前の所有者だったりとか……」
「……ビルの内部ではなく、ビルそのものの情報ということだよね。当然するはずさ。事件現場でもあり、胡散臭い場でもあるから」
「胡散臭い場、ですか」
その瞬間、藤原はハッとした表情を浮かべた。聞かれてはならない言葉だったのだろう、「しまったな……」とつぶやいていた。ただ、聞かれた以上隠し通すことなどできはしない。彼は観念したように「口外しないでほしい」と前置きした。
「……これはただの噂なんだが、あのビルの所有者はとある宗教団体と懇意にしていたそうなんだ。その名も魂魄教。大和田誠一を教祖とした新興宗教の名だ」
彼にとって、これはとびっきりのネタだった。怪しい新興宗教の活動場所が近くにあると分かれば、嫌悪なり好奇なり、それなりに大きく感情が揺さぶられるはずである。だが、彼の目の前にいた三人は、誰一人として驚きの声をあげることなく、まるで予想通りとでも言わんばかりに頷いていた。
「まさか、知ってたのか?」
「いや、そう言う訳じゃないが。……今、特別相談室として調べている事件でな、そいつらが大いに関係しているんだ。……ネットにうわさ話の一つや二つ、転がってたぜ」
坂本はそう言いながら部屋の端に追いやっていたホワイトボードを指さす。藤原はそれを呼んだ後、「ああ……」と声を漏らしていた。
「なるほどね、そういう噂もあったのか……。それで、なんで魂魄教なんかを調べているんだ?」
坂本は少し悩んだ。有田春香の話はあまり言いふらすものではないのかもしれない。だが、謎の女性死体が魂魄教関係者の持ちビルから見つかった。これを偶然で片づけていいものだろうか。ここで事情を話せば、女性死体の捜査情報を共有してもらえるかもしれない。……ほぼ手掛かりがない今、それに頼るほかなかった。坂本は簡潔に事情を話す。藤原はしばらく黙ったままだったが、「それなら」と口を開いた。
「この件も関係があるかもしれないね。……死体で見つかった女性も、元信者だったらしいから」
坂本たちは藤原に連れられ、資料室へと向かっていた。理由は分からない。ただ、彼が先ほどそう言ってからすぐに「来てくれないか」と席を立ったからである。藤原は資料室に入るなり、もっとも部屋の奥に置かれていたパソコンを起動させた。しばらく誰も使っていないのか、キーボードには少し埃がかぶっている。彼はそれを適当に払い落とし、とあるファイルを開いた。
「これは?」
画面上には様々な人物の名前と年齢、そして何かの日付とバツマークがつけられたデータが表示されている。まるで名簿のようだ。……坂本からの問いに藤原はすぐに答えた。
「魂魄教のせいで行方不明になったと思われる人たちを纏めたものだよ。……この日付はその人がいなくなった日、バツがついているのはもう死んでしまった人ってことさ」
「……こんな情報が残っていたとはな」
「知らないのも無理ありません。このデータはおそらくこのパソコンにしか入っていませんから」
パソコンに表示されたデータに驚愕の声をあげていた松本は、藤原の言葉でさらに驚くことになる。
「何?内部のデータはすべて一括で管理されているんじゃないのか?」
「それはそうなんですが、いらない情報って言うのはどんどん消されていくもので。上の人たちにとっては、失踪した人たちにリストも不要なんですよ。……魂魄教のせいでどうせ探せませんし。その上、古いパソコンも処分されますから、こういうデータはどうしても残らないんですね」
「じゃあ、なんでこれには残ってるんですか?」
山崎からの当然ともいえる質問。だが、藤原は首を横に振り「なんでだろうね」と肩をすくめて見せた。
「なんでだろうねって、知らないんですか?」
「うん。僕がこのデータにたどり着いた時、すでにこのファイルには過剰ともいえるほどのプロテクトがかかっていたんだ。試しに一文字、何か入力してみなよ」
山崎は勧められるがままにキーボードで文字を入力しようとしてみたが、「管理者のみ可能」と表示され、何も書き加えることが出来なかった。
「ほら、何もできないでしょ?……おそらくだけど、以前に魂魄教の捜査をしていた誰かが、このデータを残したんだろうね。……こうなる可能性を見越して」
「……まさかな。兎に角、このデータは有用だ。利用させてもらうとしよう」
「うん、それがいいよ。どうせそれ以外には役に立たないだろうから」
藤原はそう言うと、「さて」と言って立ち上がった。視線を腕時計に落とし、時間を気にしているようだ。
「どうした?何か予定でもあるのか?」
「ん?……ああ、この後捜査本部会議があるんだよ。あと十分ぐらいかな」
「それ、俺たちも参加できないか。俺たちは第一発見者だ、参加する権利はあるはずだろう?」
坂本からの頼みに、藤原は難しい表情を浮かべた。
「……厳しいことを言うが、君は何を知っているんだ?犯人の後ろ姿を見たりしたのか?」
「いや、見ていない」
「なら、君が持っている情報はないに等しい。そして君は捜査本部のメンバーではない。……会議に参加する理由なんてないんだよ」
藤原の物言いは厳しいものだったが、そのいずれもがまさしく正論であった。坂本には言い返すべき言葉もない。
「変なこと頼んで悪い」
「いや、謝る必要はないよ。君にはただ会議に参加してほしくないだけだからさ。……上の奴らは、君が犯人なんじゃないかと思ってる」
「は?」
電源が消され、真っ暗になった画面を見つめながら藤原がそう言った。坂本よりも早く、松本が困惑の声をあげている。当の坂本はというと、驚きも困惑も、その顔には浮かんでいなかった。
「何故だ⁉坂本はずっと俺たちと一緒に行動していたんだぞ!疑われる理由なんかこれっぽっちも……。まさか、第一発見者って理由だけで疑ってんのか?」
「それは僕にもわかりません。けれど、死体の状態があまりにも不可解すぎるんです。……坂本さんたちが発見する数時間前の死亡、偶然発見したにしてはあまりにも都合がよすぎる」
「だが、事実として……」
「上の人たちはこう考えています。……犯人は坂本。動機は不明だが、彼が橋本恵を毒殺したのち廃墟となったビル内に放置。その後、偶然を装って発見。……正直、外部犯によるものと言われるよりは筋が通っているように思えますよね」
「……だが、俺は橋本恵のことは名前すら知らなかったんだぞ。それに、毒なんかどこで手に入れるんだ」
「まあ、それほど上の人たちは何も考えていないってことさ。……それでも、君が会議に参加すれば面倒なことになるのは間違いない」
藤原からの説得に、坂本は首を縦に振る他なかった。藤原は椅子から立ち上がりながら言う。
「会議が終わったら情報は共有するよ。それまで待ってて」
「……わかった。ありがとう、藤原」
彼は「どういたしまして」の言葉を残し、一足先に資料室から出て行った。坂本たちも、これ以上ここにいる理由などない。彼が出て行ったすぐ後に、特別相談室へと戻っていった。
それから二時間後。日が傾き始めた頃にようやく、藤原が特別相談室へと姿を現した。その表情からは会議の進捗などは読み取れない。彼が小脇に抱えている資料に頼るほかないだろう。
「お待たせしました」
「おお。……それで、会議はどうなった?」
「結論から言うと、無事に坂本以外の犯人を捜すことになりましたよ。……まあ、犯人坂本説はかなり無理がありましたから」
藤原はそう言いながらソファに腰を下ろし、抱えていた資料をテーブルの上に広げていく。彼はその中から、左端に置かれた資料を手に取った。
「橋本恵は生前、交際していた男性とトラブルになっていたらしい。捜査本部はその男が犯人ではないかと考えているようだ」
「トラブル?別れ話がどうとか、そんな話か」
「まあそんなところだね。ただ、その人物には彼女が失踪した四年前にすでに接触しているんだ。……でも、成果はなし。彼が誘拐したのではないかとも考えられたが、彼にはアリバイがあった。……それに、もし彼が犯人だったとしても、彼女が殺された日は変わらない。今日の午前十一時頃であることはね。……四年間監禁して、今さら殺す理由なんか一つもないだろう?」
「……では、犯人は誰になるんだ?」
「そこで、魂魄教が出てくる。……彼女も宗教二世だったようだけど、彼女自身はそれほど宗教に興味があったわけではないようだった。集会がある日も無視していたようなんだ。そんなある日、彼女は『生贄』というものに選ばれてしまう。彼女の母親曰く、『誇るべき仕事』らしいが、その詳細はまだわかっていない」
坂本は生贄という言葉を聞いて、背筋を少し伸ばした。藤原以外の三人は魂魄教における生贄の意味を知っている。……彼は端的に言い切った。
「魂魄教の教祖の代わりに死ぬこと、それが奴らの言う生贄だ」
「……代わりに死ぬ?どういうことなんだ?」
いまいち理解できていない藤原のために、有田香澄から聞いた情報の一部始終を伝える。藤原は最初驚いて目を見開いていたが、次第に眉間にしわが寄るようになっていた。
「なるほど。……つまり、君たちが捜している有田春香も、今日死体として見つかった橋本恵も、魂魄教の教義のために殺されたということかい?」
「信じられないだろうが、そう言うことだ。……正直、俺もまだ完全に信じているわけじゃない。生贄だなんだというが、ある一人のために誰かが死んだところで、そいつの寿命が延びるなどあり得るか?」
「到底ありえる話ではないけど、魂魄教の奴らはそれを信じているんだろう?なら、彼らにとってはそれが真実なんだ。過程がどうあれ、ね」
藤原はどこか達観したような物言いをしながら、手に持っていた資料をテーブルの上に置く。そして、隣にあった資料を代わりに手に取った。
「橋本恵の胃の内容物について、まだ話してなかったよね。確か死亡時刻を話したせいで忘れてしまったんだけど」
「……そう言えば、胃の中も何かおかしい所があるって言ってたな。そのことか」
「うん。ひとまず、これを見てよ」
藤原が手渡して来たのは司法解剖の結果が記された資料だった。資料の下半分には橋本恵の胃をレントゲンで撮影したものが載っている。ぼんやりと彼女の胃がかたどられているのが見えるが、他には真っ黒であり何も映っていない。
「胃の中は空っぽだったってことか。……別に、それはおかしいことでもないだろ。確か胃の中は四時間程度で空になる。最期に食事をとったのが四時間前なんていうのは、それほどおかしい話でもないんじゃないか?」
「……いや、そうじゃないんだ」
「ん?どういうことだ」
「彼女の胃の中は空っぽだったんじゃない。……隙間なく埋められていたんだ、土によって」
その言葉を聞いた山崎がぐっと顔をしかめる。だが、彼女がそんな表情をするのも無理はない。外面を取り繕ってはいるが、坂本も吐き気をこらえるように口を固く閉じていた。まともに話せそうもない二人に代わり、松本が口を開く。
「その土はどうした?」
「廃棄しました。調べても珍しい成分などは見つからなかったので。おそらくそこらへんの公園から持ってきた土ではないか、と」
「土を詰めた理由は……わかるわけないか。捜査本部はどう考えてる?」
「捜査本部の考えだと、犯人は元恋人ですので。恨みを晴らすための行いではないかとのことでした。……それにしては、どこかずれているような気もしますが」
「確かにな。土を詰めることのどこが恨みを晴らす行為なんだか。……まあ、おもちゃ扱いしたかったってことなのかも知れないが」
二人が話している間に、ようやく坂本と山崎は気を取り直したようだ。「すまない」と短く謝り、会話へと参加する。
「さすがに気分が悪くてな、ちょっと落ち着く時間が欲しかった。……それにしても、土か。恨みというよりは、儀式の下準備みたいだよな」
「下準備?」
「ああ。……俺のただの想像だが。儀式に使う生贄はなるべく肥え太らせた方がいいんじゃないかと思ってな。けど、実際に食わせるのはもったいなかったか、それともそれほど余裕がなかったのか。どっちかは知らないが、土で腹を埋めることを選んだ、とかどうだ?」
「『どうだ?』って言われても……。儀式の話を出したってことは、君は橋本恵を殺した犯人が魂魄教に関係しているって考えているんだろう?まあ実際、彼女は教団の二世ではあったけれど……」
「ああ、それがどうかしたか?」
「魂魄教を調べるのは難しいよ。確か二十年以上前に解散しているんだろ?それ以降、目立った活動もしていないし、活動拠点もはっきりしていない。奴らに聞き込みをするためには、日本中を探しまわる羽目になるかも知れないよ」
「……結局やることは変わんねえよ。こっちだって、有田春香の手がかりがないんだ。そこら中に仕掛けてある防犯カメラの映像見て回るかって考えてたぐらいなんだぜ」
「……やけくそじゃないか」
「『仕事に真面目』って言って欲しいけどな」
藤原はどこか呆れたように肩をすくめたが、代わりとなる案を出せるわけではない。それ以上苦言を呈することなく、「それしかないか」と諦観を口にした。坂本はそんな彼に目をくれることなく、テーブルの上に広げられた資料に手を伸ばしている。
「それで、他の資料には何が?」
「……ああ、橋本恵の人間関係がまとめられているぐらいかな。要る?」
「彼女の両親は魂魄教の信者だったんだよな。なら、情報は少しでも欲しい」
「わかった。じゃ、それは置いていくよ。……僕もそろそろ仕事に戻らないと」
藤原はそう言って席を立つ。坂本は「仕事?」と疑問を投げかけたが、彼はまた呆れたように言った。
「どっかの誰かさんが閉鎖されたビルから死体を見つけたからね。現場周辺の調査をしなきゃいけないのさ。……それじゃ、僕はこれで失礼しますよ。松本さん、お身体を大事にしてください」
彼はそう言い残して特別相談室から去っていった。人見知りのひどかった山崎は、彼がいなくなった途端に大きくため息をついていた。
「それで、これからどうします?」
藤原がいなくなった後、山崎がそう言った。彼が協力してくれたおかげでいろいろと新たな情報は得られたものの、有田春香の手がかり自体は全く得られていない。坂本は藤原が置いて行った資料に目を通すが、それらが新たな手がかりになるとも思えなかった。
「橋本恵の人間関係が分かったところでな……。やっぱり、さっき松本さんが言った通り総当たりでも……」
「やるしかないな。……ただ、今日はもう遅い。調査はまた明日だ」
松本の言葉に二人はうなずき、帰る支度を始めた。調査は一刻を争うものではあるが、何か厄介なトラブルに巻き込まれないとも限らない。英気を養っておかねばならないのだ。藤原との話が長引いたためか、空はすでに真っ暗になっている。曇っているせいか星の光も見えず、街灯だけが頼りだった。
「それでは、お疲れさまでした」
山崎と松本は駅へと向かっていった。坂本は警視庁前で二人と別れ、一人で帰路に着く。その道中、彼は違和感を覚えていた。
「……まだ六時半だよな」
彼はスマホの画面で時刻を確認する。この時間で帰るのはそれほど珍しいことでもなく、週に二度ほどはあった。その時は、会社からの帰路を急ぐ会社員や駅前の商店街で買ったであろう総菜を片手に自転車を走らせる高校生など、それなりに人気があったのだ。だが、今はどうだ。ぽつぽつと灯っている街灯は、坂本ただ一人だけを照らしている。
「いや、こんなこともあるよな」
今までがそうだったからと言って、これから先もそのままだということは決してない。用事があって遅くなったり、あるいは早くなったりということは十分にありうる。周りに人気がないのは偶然に過ぎない。坂本は頭の中に沸き起こった嫌な妄想を吐き出すように勢いよく息を吐くと、手に持っていたスマホをズボンのポケットにしまって歩き出した。その時。
「……何だ?」
自分以外の足音が聞こえた。あの甲高い音はおそらくヒール。ならば足音の主は女性だろうか。……坂本は大きくため息をついた。
「気が張ってるな。気にすることでもないのに……」
自分の後ろを歩く女性がいたところで何の関係もない。男である自分をストーキングするような変わった者もいないだろう。……坂本は閉鎖されたビルのことを思い出していた。あそこでの一件が、彼の神経を高ぶらせている。彼は再度ため息をつき、止めていた歩みを進めた。だが、いくらか歩いた後、またすぐに歩みを止めてしまう。
「……気のせいじゃないな」
警察としての勘とでもいうのだろうか。……明らかに自分に合わせたような歩幅、なるべく音を立てないようにする足運び。間違いなく、尾けられている。ちらりと振り返ると、弱弱しい街灯の下に誰かの影が映っていた。ヒールの音からして女性だろうが、ヒールを履いた変質者の男性である可能性も捨てきれない。
「誰だ!」
坂本は闇に向かってそう問いかけた。……もし気のせいならば謝らなければならないが、どうやら気のせいなどではなかったようだ。街灯の下にあった黒い影が滑るような動きで離れていく。
「待て!」
やはり自分を尾けていた。そう判断した坂本は、なぜ自分を尾けてきたのか聞きだすため、その影を追いかけた。だが、その影はまるでそこから何もなかったかのように消え失せていた。
「……何なんだ」
ただのいたずらか。それにしてはずいぶんとしつこかったような気もする。もとより疲れているというのに、誰かの道楽に無理やり付き合わされるのはたまらない。彼はまたもや大きくため息をつき、改めて帰路に着いた。
それから十分後。ようやく自宅マンションのエントランスに付いた坂本は、自動ドアをくぐる前に郵便受けの中を確かめていた。大抵は一度も頼んだことのないピザのデリバリーのチラシなどが入っているが、今日だけは違った。
「……クソッ、何のつもりだよ」
色とりどりのチラシの中、一枚だけ味気のない白い紙が彼の目に入った。片面には何もない。どうやらこれは裏のようだ。では表には何が。……そう思って紙を返すとそこには、「オオワダセイイチヲタドレ」とだけ書かれていた。オオワダセイイチ、これは魂魄教の教祖である大和田誠一のことだろう。確かに彼が生きているのなら、辿る意味は十分にあるだろう。……ただ、このメッセージを残した者は一体誰なのか。何故その人物は坂本の自宅を知っているのか。何故坂本たちが魂魄教がらみの事件を調べているのを知っているのか。
「ただ、今の所、有田春香に関しての手がかりは何もない。癪ではあるが、こいつの言うとおりにするしかないか」
坂本はメッセージが書かれた紙以外のチラシをすべて回収箱に投げ捨て、自宅へと帰った。翌日、特別相談室に出勤したのち、さらなる混乱が彼を襲うことになるとは、彼はまだ知らなかった。
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