第五十六話 哀れな男
遠く南の空。
そこに翻る旗を見た瞬間。
ダールトン・ドルドウィンは、言葉を失っていた。
見間違えるはずがない。
アーヴァルト王国軍旗。
そして、その隣に見える旗は――。
シュトライザー軍。
「……何故だ」
小さな声が漏れた。
「何故……シュトライザーの軍が後方から来るのだ」
理解できなかった。
いや。
理解したくなかった。
本来ならば、あそこから来るはずだったのは王国軍ではない。
帝国軍だ。
ジルライト軍を打ち破り。
国境を越え。
北進してくるはずだった。
その帝国軍と合流する。
エンデヴァー軍を挟み込み、ここで潰す。
その後――。
王国を奪う。
そのはずだった。
「帝国は……?」
ダールトンの声が震える。
「帝国軍はどうした!」
答える者はいない。
◇ ◇ ◇
「公爵様!」
声と共に、二人の男が指揮場へ入ってきた。
ライオ。
そしてクラウス。
二人とも、先ほどまでの戦闘で装備を汚していた。
クラウスは入ってくるなりダールトンへ詰め寄った。
「どうなっているんだ!」
ダールトンがクラウスを見る。
「帝国軍が来るはずではなかったのか!?」
「……」
「何故シュトライザー軍がいる!」
クラウスはそのままダールトンの近くまで歩み寄った。
「話が違うではないか!」
「黙れ!」
ダールトンが怒鳴る。
だが。
その声には、これまでのような威圧感がなかった。
焦り。
困惑。
そして恐怖。
それを隠すために声を荒らげているようにしか聞こえない。
「帝国からの密書には、そうあった!」
ダールトンは机へ手をつく。
「国境を抜け、北進すると!」
クラウスが黙る。
「帝国軍の主力は東へ! 一部を我らの援護へ回すと!」
ダールトンの声がさらに大きくなる。
「帝国四柱のルドルフからも連絡を受けていた!」
だから待っていた。
民兵を使い。
エンデヴァー軍をここへ縛り付け。
帝国軍が来る、その時を。
すべて。
その前提で動いていた。
「何が……」
ダールトンの拳が震える。
「何がどうなっておるのだ!」
拳が机へ叩きつけられた。
鈍い音が指揮場に響く。
誰も答えなかった。
だが。
ライオだけは。
遠くに見える王国軍旗を見つめていた。
そして静かに口を開く。
「……一つしかないでしょう」
ダールトンが振り向く。
「何?」
「ここにシュトライザー軍が来たということは」
ライオは二人を見る。
「帝国軍が負けたということでしょう」
「……」
空気が止まった。
ダールトンがライオを見る。
クラウスも。
二人とも、すぐには言葉を返さなかった。
「……負けた?」
ようやく。
ダールトンが呟く。
「帝国軍が……?」
クラウスが首を振った。
「そんなはずはない」
ライオがクラウスを見る。
「帝国軍は三万以上いたはずだ!」
クラウスの声が大きくなる。
「ジルライトなど、ひとたまりもなかったはずだ!」
「……」
「シュトライザーの援軍が間に合ったとて!」
クラウスが外を指差す。
「負けるはずがない!」
ライオは黙って聞いていた。
そして。
「クラウス様」
低い声で言った。
「目の前の状況を見てください」
「何?」
「帝国軍は来ていません」
ライオは南を指す。
「代わりに来たのはシュトライザー軍です」
クラウスの表情が固まる。
「我々が帝国軍を待っている間に」
ライオは続ける。
「シュトライザー軍は、ここまで来た」
「……」
「それが現実です」
クラウスは何も言えなかった。
ダールトンも。
ライオは、二人を見た。
「公爵様」
「……何だ」
「公爵様の叛乱は――」
一瞬。
言葉を置いた。
「失敗したのです」
「……」
ダールトンの顔から、表情が消えた。
◇ ◇ ◇
(失敗……)
その言葉だけが。
ダールトンの頭の中に残った。
失敗した。
帝国軍が敗れた。
シュトライザー軍がここへ来た。
なら。
次に起きることは分かる。
(まずい)
エンデヴァー軍。
シュトライザー軍。
二つの軍に挟まれる。
このまま戦えば。
負ける。
そして――。
(捕まれば……)
叛乱。
王国軍との交戦。
帝国との内通。
自分がしてきたことを考えれば。
(死罪……)
逃れられない。
「……まずい」
ダールトンが呟いた。
「まずいぞ……」
ライオがその姿を見る。
先ほどまで。
自分を怒鳴りつけていた男。
民兵の命など惜しくないと言い切った男。
王国を手に入れようとしていた男。
その男が今。
怯えていた。
(死にたくない)
ダールトンの頭にあるのは、それだけだった。
公爵領でもない。
残された兵でもない。
自分を信じて戦った者たちでもない。
自分自身。
ただ一人。
「逃げるぞ」
クラウスが顔を上げる。
「……何?」
「逃げる」
ダールトンは立ち上がった。
「このままここにいれば挟まれる!」
「公爵?」
「終わりだ! ここにはもういられん!」
ダールトンは周囲を見回す。
「どこかへ亡命する!」
クラウスが目を見開いた。
「亡命?」
「そうだ!」
「どこへ逃げると言うんだ!」
クラウスが声を荒らげる。
「お前はもう公爵の地位を失う!」
「……」
「王国では叛乱の首謀者だ!」
クラウスが詰め寄る。
「そんな人間を、どこの国が受け入れる!」
「えぇーい!」
ダールトンが怒鳴った。
「うるさいわ!」
クラウスが黙る。
「我は公爵だぞ!」
「もうその地位を失うと言っている!」
「公爵であったことは消えん!」
ダールトンが必死に言い返す。
「我はこの国のことを知っておる!」
軍のこと。
貴族のこと。
領地のこと。
王都のこと。
王国の内情。
「それだけの情報を持っていれば、どうとでもなる!」
それが。
自分の価値になる。
そう信じようとしていた。
「……なら」
クラウスが言う。
「どこへ行く」
ダールトンは黙った。
考える。
そして。
答えは一つしかなかった。
「……ゴルディア帝国だ」
ライオが僅かに目を細める。
「帝国ならば、我の持つ情報にも価値がある」
ダールトンはそう言った。
「それに……」
帝国とは既に繋がっている。
密書も交わしている。
今回の計画も共有していた。
「亡命するならば、ゴルディア帝国しかあるまい」
ライオは少しの間、ダールトンを見ていた。
そして。
「それが賢明かと存じます」
ダールトンがライオを見る。
「公爵様とクラウス様は、先にお逃げください」
「何?」
「このまま全軍で動けば、すぐに気づかれます」
ライオは静かに言う。
「私が残ります」
クラウスがライオを見る。
「騎士団長?」
「ここで時間を稼ぎます」
ライオは淡々としていた。
「その間に、お二人は帝国領へ」
少しの沈黙。
ダールトンはライオを見た。
長年。
自分に仕えてきた騎士。
自ら手を汚し。
命令に従い。
ここまでついてきた男。
その男が。
自分を逃がすために残ると言った。
ダールトンは――。
「そうか」
それだけだった。
ライオの表情は変わらない。
「行くぞ、クラウス」
ダールトンが踵を返す。
クラウスは一度だけライオを見る。
だが。
何も言わなかった。
そのままダールトンについていく。
指揮場を出る直前。
ダールトンが振り返った。
「あとは任せる、騎士団長」
「……はっ」
それだけ言って。
ダールトンは去った。
足音が遠ざかっていく。
ライオは一人。
その場に残っていた。
「……」
長い間。
仕えてきた。
貴族軍が廃止されてから。
ずっと。
公爵のために働いた。
命令されれば手を汚した。
自分の地位を守るためでもあった。
それでも。
騎士団長まで上り詰めた。
そして最後には。
主君を逃がすため。
自分が残る。
それなのに。
「……最後まで」
ライオが小さく笑った。
「名を呼ばれることがないとはな」
誰も答えなかった。
◇ ◇ ◇
ダールトンとクラウスは。
わずかな兵士だけを連れ、公爵軍から離れた。
残された兵士たちには。
何も告げなかった。
これまで自分のために戦ってきた民兵も。
雇った傭兵も。
騎士団も。
そして。
最後まで自分を逃がそうとした騎士団長も。
すべてを置いて。
ダールトンは逃げた。
向かう先は――。
ゴルディア帝国国境。
かつて。
王国でも有数の大貴族として振る舞い。
多くの者を従え。
王国そのものを手に入れようとした男。
その背中に。
もはや公爵としての威厳はなかった。
国を奪おうとし。
失敗すれば国を捨て。
自分に仕えた者たちさえ置き去りにする。
数名の兵士だけを連れて逃げていくその姿は。
あまりにも――。
惨めで。
哀れな男の姿だった。




