第五十二話 広がる疑心
アルメリア歴174年4月11日。
グレンデル南部。
クジルが戦線の死守を決めた翌日。
空からは細かな雨が降っていた。
昨日までと変わらず、エンデヴァー軍とドルドウィン公爵軍は互いに距離を保ったまま陣を構えている。
どちらも大きく動かない。
民兵たちは前線に並び、後方には騎士団や傭兵団が控えていた。
そんな中。
公爵軍の民兵たちの間で、ひとつの噂が広がり始めていた。
「なぁ」
一人の男が、隣にいた民兵へ声をかける。
「なんだ?」
男は後方を指差した。
「……あれに見覚えないか?」
「どれだ?」
指の先。
そこには傭兵団がいた。
雨避けの布を被る者。
武器を手入れする者。
仲間同士で話す者。
普段なら、誰も気に留めない光景だった。
だが。
男はその中の一人をじっと見ていた。
周囲の民兵たちも、つられるように目を向ける。
「……知らんな」
「俺も分からん」
「いや……どっかで見たような……」
反応はばらばらだった。
男は黙ったまま、その傭兵を見続ける。
そして。
「俺の村を襲った奴に似てる」
その言葉で、周囲の空気が変わった。
「……何?」
「何年前かに村が襲われたって言っただろ」
「ああ」
「あの時いた奴だ」
男の声は小さかった。
だが。
周囲には十分届いた。
「本当か?」
「間違いねぇのか?」
「分からん」
男はそう答えた。
「でも……似てる」
それだけだった。
確証などない。
だが。
一度生まれた疑いは、それだけで十分だった。
少し離れた場所でも。
「……あいつ」
別の民兵が傭兵団を睨んでいた。
「どうした?」
「俺たちの村に来た連中の中に、似た奴がいた」
「またか?」
「家を焼かれた」
その声に、隣の男が振り向く。
「俺の兄貴も殺された」
また別の声。
「私の娘を襲った奴に似てる……」
周囲が静かになる。
傭兵団を見る目が変わっていく。
昨日までは。
同じ軍にいる者だった。
公爵が雇った兵。
それだけだった。
だが今は違う。
「あいつら……」
誰かが呟いた。
「本当に公爵様の味方なのか?」
「味方だから雇われてるんだろ」
「じゃあ、なんであんな奴らがいる?」
答えられる者はいなかった。
そして。
別の誰かが言った。
「そんな奴らを……何で公爵様の軍に入れてるんだ?」
それを境に。
疑問は、少しずつ形を変えていった。
何故。
どうして。
公爵は知っているのか。
知らないのか。
もし知っていたなら――。
民兵たちの間で、疑心が広がり始めていた。
やがて。
雨が止んだ。
雲は残っている。
地面も湿っていた。
それでも戦うには十分だった。
前線へ命令が届く。
「前進!」
だが。
民兵たちは動かなかった。
「……?」
後方から様子を見ていたライオが眉を寄せる。
再び命令が飛ぶ。
「前進せよ!」
それでも。
動かない。
一人や二人ではない。
前線に並ぶ民兵の多くが、その場に立ったままだった。
これまでなら。
命令があれば前へ出た。
公爵のためだと。
王国のためだと。
疑うことなく動いていた。
それが今は。
誰も剣を上げようとしない。
「何をしている……」
ライオの表情に困惑が浮かぶ。
数名の兵士を連れ、そのまま民兵のもとへ向かった。
「何故動かない!?」
ライオの声に、民兵たちが振り向く。
返事はない。
「前進命令が出ている!」
すると。
一人の民兵が前へ出た。
「騎士団長」
「なんだ」
「公爵様に聞きたいことがある」
ライオの眉が僅かに動く。
「聞きたいこと?」
「はい」
別の民兵も口を開いた。
「俺もあります」
「俺もだ」
「私も」
次々と声が上がる。
ライオは周囲を見る。
どの顔にも。
いつものような迷いのなさはなかった。
疑っている。
そう感じた。
「今は戦場だ」
ライオが言う。
「話なら後だ」
だが。
民兵たちは動かない。
ライオは一瞬考えた。
このままでは前線が止まる。
敵に隙を与えることになる。
「……ここにいろ」
そう言って、ライオは踵を返した。
公爵軍本陣。
「失礼します!」
ライオが陣へ入る。
指揮場にはダールトン・ドルドウィンがいた。
ダールトンはライオを見るなり、表情を険しくした。
「騎士団長」
「はっ」
「何をしている」
ライオが顔を上げる。
「前線が動いていないではないか」
「その件です」
「何だ」
ライオは短く息を吸う。
「民兵たちが、公爵様に聞きたいことがあると言っております」
ダールトンの表情が僅かに変わる。
「聞きたいこと?」
「はい」
「何を急に」
苛立ちを隠さず言う。
「そんなものは後にさせよ」
「しかし――」
「今は戦場だ」
ダールトンが遮る。
「命令に従わせろ」
ライオはしばらく黙った。
だが。
これ以上ここにいても話は進まない。
「……承知しました」
そう答え。
その場を離れた。
再び前線。
ライオが戻ると、民兵たちはまだ同じ場所にいた。
誰も動いていない。
「公爵様は何と?」
一人が聞いた。
ライオは少し間を置く。
「事情は後ほど聞く」
民兵たちの表情が変わる。
「今は戦いに専念せよ」
静寂。
その一言が。
民兵たちの疑いを、さらに深くした。
「……後で?」
誰かが呟く。
「俺たちはずっと命令を聞いてきた」
別の男が言う。
「村を守るためだって」
「公爵様のためだって」
次々と声が上がる。
ライオは警戒する。
「落ち着け」
だが。
一人の民兵が剣を抜いた。
刃先が。
ライオへ向けられる。
付き添っていた兵士たちがすぐに武器へ手をかける。
「やめろ!」
ライオが叫ぶ。
だが、その民兵は剣を下ろさなかった。
「俺たちは公爵様のために戦いに来たんだ!」
声が震えている。
怒りか。
恐怖か。
その両方かもしれない。
「だけど!」
男は叫ぶ。
「話も聞いてもらえないなら、ここにいる意味はねぇ!」
「そうだ!」
「説明しろ!」
「何であいつらがいるんだ!」
周囲から声が重なる。
何人もの民兵が武器を握る。
ライオはその光景を見渡した。
今。
無理に押さえ込めば。
この場で味方同士の戦闘になりかねない。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
説得を続けるのは危険だった。
まず前線を維持しなければならない。
ライオは後方を見る。
騎士団。
そして。
傭兵団。
(傭兵を前に出すしかないか)
民兵が動かない以上。
その穴を埋める必要がある。
一度戦線を保つ。
その間に、この状況をどう収めるか考える。
だが。
今まで後方へ下げていた傭兵団を前へ出せば。
民兵の疑念がさらに強まる可能性もある。
ライオは奥歯を噛んだ。
どちらにしても。
もう無視できる状況ではなかった。
その頃。
騒ぎが広がる民兵の集団から。
数人の男たちが、静かに離れていた。
誰かが叫んでいる。
別の誰かがライオへ詰め寄っている。
全員の視線は、そこへ集まっていた。
だから。
彼らが離れたことに気づく者はいなかった。
一人。
また一人。
人混みの中から抜け。
戦列の外へ向かう。
その中に。
深くフードを被った男がいた。
周囲を一度だけ確認する。
そして。
何事もなかったかのように歩き出した。
男の名は――。
ルクス・ウェイン。
民兵たちの間に広がった疑心を背に。
ルクスは、誰にも気づかれぬまま戦場を離れていった。




