第四十四話 見えない恐怖
豪雨は止まなかった。
空から叩きつけるように降り続ける雨が、戦場を覆い隠している。
少し離れれば人影すらぼやけ、各旅団の旗も見えない。
前線から響いていた剣戟や兵士たちの怒号さえ、激しい雨音にかき消されていた。
どこで味方が戦っているのか。
敵がどこまで進んでいるのか。
それすら分からない時間が続いていた。
◇ ◇ ◇
王国軍中央。
ヴァレン・シュトライザーは指揮場から前方を睨んでいた。
だが、何も見えない。
本来なら確認できる各旅団の位置も、今は雨の向こうに消えている。
伝令を出したところで、報告が戻ってくるまでには時間がかかる。
その間にも前線は動き続ける。
ヴァレンは決断した。
「伝令!」
「はっ!」
「ネルとユータスに伝えろ! 前進せよ!」
伝令兵が姿勢を正す。
「前衛に張り付き、以降は自身の判断で行動せよ!」
「はっ!」
「ノイヤーとアンナにも同様に伝えろ!」
伝令兵が豪雨の中へ駆け出していく。
その姿は、すぐに雨の向こうへ消えた。
ヴァレンは前方を睨んだまま動かなかった。
(指揮場から戦況が見えない今、各旅団長に任せるほかない)
細かな命令を出しても、その命令が届く頃には状況が変わっているかもしれない。
ならば、前線にいる者たちへ判断を委ねる。
今はそれしかなかった。
ヴァレンの命令を受けたネル・ハーネスは、すぐに旅団を動かした。
「前進する!」
ネルの声が響く。
だが、その声さえ豪雨によって遠くまでは届かない。
「視界の利く範囲でゆっくり進む! 前衛は特に気をつけて進め!」
命令が兵士から兵士へ伝えられていく。
ハーネス旅団は速度を落としたまま、慎重に前進を開始した。
旅団前衛。
そこにはルミエル小隊が配置されていた。
「急がないで!」
リシアが周囲へ声を飛ばす。
「互いの姿が見える距離を保って! 勝手に前へ出ないで!」
「はい!」
ラウルも剣の柄に手を添えながら進む。
雨が顔を叩く。
目を細めなければ、前を見ることすら難しい。
地面も少しずつぬかるみ始め、踏み込むたびに靴が沈んだ。
リシアが前方へ目を凝らす。
「このまま真っ直ぐに進めば、アシック旅団の後方につくはずよ!」
そして周囲を見回した。
「視界が悪い! 人影を見つけても、味方か敵か確認して! 同士討ちには気をつけて!」
「はい!」
小隊員たちが応える。
それからは、ただ慎重に進んだ。
一歩。
また一歩。
聞こえるのは雨ばかりだった。
ざあああああ――。
前線の音が聞こえない。
剣がぶつかる音も。
兵士たちの叫び声も。
指揮官の怒号も。
何も聞こえない。
だからこそ、不気味だった。
敵がいないのか。
それとも、すぐ近くにいるのか。
それすら分からない。
かなり前へ進んだ。
それでも味方の姿は見えてこなかった。
ラウルは前方を睨む。
(そろそろアシック旅団にぶつかってもおかしくないはずだ)
配置が大きく変わっていなければ、この先には味方がいる。
(どこにいる?)
自然と歩みが遅くなる。
前を進む兵士たちも同じだった。
何も見えないことが、全員の足を鈍らせていた。
じりじりと進む。
その時だった。
ラウルの目が止まった。
雨の向こう。
何かがいる。
「……?」
人影。
一つではない。
いくつもある。
ラウルは目を凝らした。
まだ分からない。
「あれは……?」
もう少し前へ出る。
コルティオも目を細める。
「味方じゃないっすか?」
この先にいるはずなのはアシック旅団。
そう考えるのは当然だった。
だが。
人影が近づいてくる。
少しずつ輪郭が見え始めた。
厚い装甲。
大きな盾。
ラウルの表情が変わる。
「敵だ!」
ラウルが叫んだ。
「ルミエル隊長! 敵です! 前方、重装歩兵!」
リシアがすぐに剣を抜く。
「全員、構えて!」
ほぼ同時に、向こうもこちらに気づいた。
雨の向こうから重装歩兵が突撃してくる。
「来るぞ!」
次の瞬間。
両者が激突した。
剣と盾がぶつかる。
重い金属音が響く。
「陣形を整えて! 前を空けないで!」
リシアの指示に合わせ、ルミエル小隊が敵を受け止める。
ラウルも振り下ろされた剣を受け流した。
重装歩兵がさらに踏み込んでくる。
「なんで敵がいるっすか!」
コルティオが叫ぶ。
ナタリアも剣を構えながら声を上げた。
「前にいるの、アシック旅団じゃなかったの!?」
「今は目の前に集中しろ!」
ラウルも叫ぶ。
理由を考えている場合ではない。
今、目の前にいるのは敵だ。
重装歩兵が再び押し込んでくる。
ルミエル小隊はその攻撃を受け止めた。
前衛で戦闘が始まったとの報告は、後方のネルにも届いた。
「前衛が敵重装歩兵と接触!」
ネルの表情が変わる。
「敵?」
本来なら、その位置にいるはずなのはアシック旅団だ。
だが、考えている時間はない。
「援軍小隊を送れ! 前衛を支えろ!」
「はっ!」
複数の小隊がルミエル小隊のもとへ向かった。
前衛。
援軍が加わっても、重装歩兵は簡単には崩れなかった。
剣を当てても、厚い装甲に阻まれる。
敵兵が盾を押し出し、王国兵を後退させる。
リシアはその様子を確認すると声を張り上げた。
「コルド!」
「おう!」
コルド・ルビックが腰へ手を伸ばす。
取り出したのはハンマーだった。
近くにいた二人の兵士も同じようにハンマーを握る。
コルドが前へ出た。
「行くぞ、お前ら!」
「おう!」
三人が重装歩兵へ突っ込む。
敵兵が盾を構えた。
コルドはその前へ踏み込み――。
ハンマーを振り抜いた。
鈍い音が響く。
ハンマーが重装歩兵の兜を直撃した。
兜が大きく揺れる。
敵兵の足元がふらついた。
「今だ!」
その隙へ兵士たちが飛び込む。
ラウルも続いた。
体勢を崩した敵兵へ剣を突き込む。
重装歩兵が倒れた。
コルドはすでに次の敵へ向かっていた。
別の兵士がハンマーを振り下ろす。
敵兵が盾で受ける。
その衝撃で姿勢が崩れたところへ、もう一人が横から兜を殴りつけた。
敵兵がよろめく。
「コルドに続いて!」
リシアが叫ぶ。
ルミエル小隊が一気に前へ出た。
ハンマーで重装歩兵の体勢を崩し、そこへ剣を持った兵士たちが続く。
一人で倒そうとしない。
役割を分けて敵を崩していった。
◇ ◇ ◇
一方。
ネルは前方を睨みながら考えていた。
(なぜ敵がいる?)
この先にいるはずなのはアシック旅団だった。
その後方へ追いつくつもりで前進した。
それなのに、前衛が遭遇したのは敵の重装歩兵。
アシック旅団はどこへ行った。
敵がアシック旅団を突破したのか。
それとも。
自分たちか、アシック旅団の位置そのものがずれているのか。
雨で何も確認できない。
その時だった。
「旅団長!」
右側にいた兵士が叫んだ。
ネルが振り向く。
豪雨の中から数人の人影が現れる。
周囲の兵士たちが一斉に警戒する。
人影が近づく。
王国軍の装備。
味方だった。
「所属を言え!」
「アシック旅団です!」
ネルの目が細くなる。
「伝令として参りました!」
「状況を報告しろ!」
伝令兵が息を整える。
「我々は戦闘の中で右へ流れています!」
「右へ?」
「はい! ローフェンス旅団側へ寄っています!」
豪雨の中で戦闘を続けるうちに、アシック旅団の戦列は少しずつ右へ流れていた。
そしてノイヤーは、自軍左側にも味方の存在を確認した。
それがハーネス旅団だと判断し、現在位置を知らせるため伝令を送ってきたのだ。
ネルは前方を見る。
ようやく状況が繋がった。
自分たちが進む方向を大きく間違えたわけではない。
前にいるはずだったアシック旅団が、戦闘によって右へ流れていた。
その空いた場所へ進んだ結果――。
ハーネス旅団は敵前線まで出ていた。
「……なるほどね」
ネルはすぐに伝令を見る。
「戻ったらノイヤーに伝えろ!」
「はっ!」
「シュトライザー大将より、前衛に張り付き、自身の判断で行動せよとの命令だ!」
「承知しました!」
「アンナにも伝えるように!」
「はっ!」
伝令兵たちは再び豪雨の中へ戻っていった。
ネルはすぐに各大隊長へ状況を伝達する。
アシック旅団が右へ流れている。
そのためハーネス旅団は、すでに敵前線へ到達している。
そして。
ここからは前線を維持する。
命令は各隊へ伝えられていった。
やがて、その情報は前衛で戦っていたルミエル小隊にも届いた。
「現在地は前線! アシック旅団は右へ移動している! この位置を維持せよ!」
「ここ、前線なんすか!?」
コルティオが驚いて声を上げる。
ナタリアも雨の向こうを見る。
だが、何も見えない。
ラウルはリシアへ顔を向けた。
「どうしますか、隊長!」
リシアは剣を握ったまま答える。
「旅団長の指示は前線で維持よ!」
前方へ向き直る。
「このままここで敵を倒す!」
ラウルも頷いた。
それには同感だった。
ここで引けば、その分だけ敵が前へ出る。
右へ流れたアシック旅団の負担が増えるだけだ。
周囲が見えない状況は何も変わっていない。
味方がどこにいるのか。
敵がどれだけいるのか。
分からない。
雨の向こうに見える人影が、敵なのか味方なのかさえ、近づかなければ判断できない。
ラウルは剣を握り直した。
「コルティオ! ナタリア!」
「何っすか!」
「何!」
「見える距離で戦ってくれ! 離れるな!」
二人がすぐに答える。
「了解っす!」
「了解!」
また雨の向こうに人影が浮かび上がる。
ラウルは目を凝らした。
敵か。
味方か。
まだ分からない。
豪雨は止まない。
視界も戻らない。
何が待っているのか分からないまま、戦わなければならない。
この戦場では今――。
見えないことそのものが、恐怖になっていた。




