第四十三話 幸運か不運か
帝国本軍の姿が遠ざかっていく。
ホーランス・ジルライトは、それを追おうとはしなかった。
敵本軍の突撃を食い止めたとはいえ、こちらにも余裕があるわけではない。
何より、崩壊したヴァルディス旅団の兵士たちをまとめ、本陣を守るために急造した戦列だった。
ここで追えば、今度はこちらが崩れる。
「追うな!」
前へ出ようとした兵士たちが足を止める。
ホーランスは戦場を見渡した。
ローズ軍は後退。
ペペロン軍も下がっている。
ルルベル軍も挟撃を受け、戦線を後方へ移し始めていた。
敵全体が引いている。
ならば、こちらも今やるべきことは追撃ではない。
「全軍を立て直す!」
ホーランスが声を張り上げた。
「こちらも陣を引く! 急げ!」
命令が各隊へ伝わっていく。
負傷者を収容する者。
散らばった兵士を集める者。
崩れた隊列を整える者。
兵士たちは疲労した身体を動かしながら、次々と再編に入った。
ホーランスはその様子を見つめる。
勝ったわけではない。
ただ、敵の攻勢を止めただけだ。
まだ戦いは終わっていなかった。
◇ ◇ ◇
一方。
本陣突破を諦め、左へ転進したドイザッハ・マクシミリアンは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
帝国本軍がその後ろに続く。
(この大軍で抜けぬとは……)
本軍を直接投入した。
自ら先頭にも立った。
それでも、ホーランス率いる兵たちを突破することができなかった。
時間をかければ押し切れたかもしれない。
だが、その間にも他の戦線は動く。
ルルベル軍は挟撃され、ローズ軍とペペロン軍も後退していた。
あの場所に留まり続ける方が危険だった。
(まずいな)
マクシミリアンは周囲を確認する。
このまま中途半端な位置に留まる理由はない。
「一気に後退する!」
帝国兵たちが反応する。
「他軍と合流する! 下がるぞ!」
帝国本軍はさらに後退した。
各軍もそれに合わせる。
やがてローズ軍、ペペロン軍、ルルベル軍、そして帝国本軍は戦線を大きく下げた。
その先にあるのは、国境砦。
帝国軍は国境砦前まで後退し、再び陣を構えることになった。
◇ ◇ ◇
ローズ軍本陣。
ローズ・ギュンターは、険しい表情で報告を聞いていた。
前線から戻ってくる兵士たち。
運び込まれる負傷者。
疲れ切った部下たちの姿。
どれを見ても、良い状況とは言えない。
(このままでは撤退せざるを得ない)
まだ兵数そのものはこちらが上だ。
だが、兵が多ければ勝てるわけではない。
攻めても崩せない。
前へ出ても押し返される。
それが続けば、兵士たちの士気にも影響する。
(こうも攻めあぐねては……)
ギュンターが拳を握る。
そして、別の不安が頭をよぎった。
もし、このまま撤退となれば。
(誰がこの責任を負うというのだ)
国境砦を陥落させた。
それはローズ軍の功績だ。
だが、その後の戦いで結果を出せなければどうなる。
まして、帝国軍全体が撤退することになれば。
その責任の一端を、自分に負わされる可能性もある。
ギュンターは、その考えを振り払うことができなかった。
焦っていたのは、ギュンターだけではない。
ペペロン・ヤーノもまた、自軍本陣で戦況を考えていた。
ローズ軍にはまだ功績がある。
国境砦を陥落させたという、明確な結果だ。
だが。
(我々には何がある)
ペペロン軍には、まだ何もない。
それどころか、先ほどの攻勢にも失敗した。
結果を残せないまま兵を失い、後退した。
この戦いがここで終われば。
残るのは功績ではない。
汚点だ。
(このままでは……)
ヤーノは黙ったまま、目の前の戦場を見つめていた。
帝国軍が国境砦前に陣を立て直した頃。
一人の男がマクシミリアンの本陣を訪れた。
「失礼します」
ルルベル・ディオンだった。
「ドイザッハ様」
マクシミリアンが顔を上げる。
「今後、如何しますか?」
ディオンの問いに、マクシミリアンはすぐには答えなかった。
現在の戦力。
各軍の損害。
兵士たちの状態。
それらを頭の中で整理する。
(……二万七千)
帝国軍の兵力は、すでに二万七千まで減っていた。
重装歩兵にも疲労が見える。
何度も激しい戦闘を繰り返してきた。
装備が重い分、消耗も大きい。
ローズ軍は押し返された。
ペペロン軍も攻勢に失敗した。
頼みのルルベル軍も、カートリック旅団による挟撃を受け、損耗が激しい。
どの軍にも余裕がない。
マクシミリアンの頭に、一つの言葉が浮かんだ。
撤退。
ここで退けば、これ以上の損害は避けられる。
兵を立て直すこともできる。
だが――。
(できん)
皇帝陛下の命に逆らうことになる。
あの方は、この戦いにすべてを賭けている。
ここまで来て、簡単に捨てることなどできない。
沈黙の後。
マクシミリアンはディオンを見た。
「明日の明朝」
ディオンが僅かに姿勢を正す。
「再度仕掛ける」
「……承知しました」
「兵を休ませておけ」
「はっ」
ディオンは頭を下げた。
◇ ◇ ◇
そして翌朝。
帝国軍は再び動き始めた。
夜の間に各軍の配置は組み直されていた。
中央。
ペペロン軍。
ここには本来の戦力に加え、さらに兵が割かれている。
今日の攻勢の中心の一つだった。
右軍にはルルベル軍。
黒壁盾兵団を前面に配置する。
ただし、昨日までとは違う。
積極的に前へ出るためではない。
敵の攻撃を受け止めるための陣形だった。
その後方には本陣が置かれる。
連戦と昨日の挟撃によって損耗したルルベル軍には、戦線を維持する役目が与えられていた。
そして左軍。
ローズ軍。
こちらも損耗が激しい。
そのため、本軍から予備兵が投入された。
帝国軍の狙いは明確だった。
右で耐える。
中央と左で攻める。
昨日の敗勢を、一日で覆すための布陣だった。
対するアーヴァルト王国軍も、すでに再編を終えていた。
中央には、まだ大きな損耗を受けていないアシック旅団とローフェンス旅団。
さらに昨日の戦闘で戦果を挙げたハーネス旅団。
そしてデイロ旅団が配置されている。
右軍にはジルライト軍。
左軍には突破を重視した戦力が集められた。
ベインライト旅団。
サーペイン旅団。
そして昨日、ルルベル軍への挟撃に成功したカートリック旅団。
両軍ともに、昨日と同じ戦いをするつもりはなかった。
昨日の結果を受けて兵を動かし、次の戦いへ備えている。
そして――。
再び戦端が開かれた。
「前進!」
両軍の兵士たちが動き出す。
中央で激しい衝突が起きた。
王国軍中央は、まだ戦力に余裕がある。
兵士たちの動きも悪くない。
だが、対するペペロン軍は兵数を増強されていた。
王国軍が押す。
帝国軍が受け止める。
帝国軍が押し返す。
王国軍が踏み止まる。
互いに決定的な突破を許さない。
戦線は拮抗していた。
◇ ◇ ◇
一方、王国軍右軍。
ジルライト軍は前へ出ていた。
「押せ!」
兵士たちが重装歩兵へ襲いかかる。
これまで王国軍を苦しめてきた重装歩兵。
だが、その動きには明らかに疲労が見え始めていた。
重い装備。
連日の戦闘。
昨日までなら踏み止まっていた攻撃でも、一歩下がる。
ジルライト軍は、その変化を逃さない。
少しずつ。
確実に。
帝国軍を押し始めていた。
ハーネス旅団。
ルミエル小隊は、まだ後方で待機していた。
ラウルは前方から聞こえてくる戦闘音に耳を傾けていた。
剣戟。
怒号。
遠くから聞こえる指示。
前線では、すでに激しい戦闘が始まっている。
だが、ここからでは戦況のすべては見えない。
ラウルが空を見上げた。
頬に何かが触れた。
「……雨だ」
小さな水滴だった。
一滴。
また一滴。
乾いていた地面に、小さな染みができる。
ナタリアも空を見る。
「降ってきたわね」
最初は、それだけだった。
ぱらぱらと降る程度の雨。
戦闘を止めるほどではない。
だが。
雨脚は少しずつ強くなっていった。
地面の染みが増える。
兵士たちの髪が濡れる。
軍服の肩が濡れていく。
「結構降ってきたっすね」
コルティオが空を見上げる。
ラウルは黙って前線へ目を向けた。
先ほどまで見えていた兵士たちの姿が、少しずつ霞んでいる。
さらに雨が強くなる。
ざあああああああ――。
周囲を埋め尽くすような雨音。
前方から聞こえていた戦場の音さえ、遠く感じ始めた。
「……前が見えないわ」
ナタリアが目を細める。
雨で視界が狭まっていた。
遠くの部隊が見えない。
旗も見えづらい。
どこが押しているのか。
どこが下がっているのか。
後方にいるラウルたちには、次第に分からなくなっていく。
コルティオも前方を覗き込む。
「戦況、どうなってるっすか?」
誰も答えられなかった。
ラウルは空を見る。
雨は弱まらない。
むしろ、さらに激しくなっている。
止む気配はなかった。
戦場を覆い隠すように。
豪雨が降り続けていた。




