第四十二話 焦り
ルルベル軍は、なおも戦線を維持していた。
黒壁盾兵団を中心とした堅牢な陣形は崩れていない。
敵の援軍、その本体のほとんどを正面で受け止めながらも、戦列は保たれている。
自軍の動きに問題はなかった。
それでも――。
ディオン・ルルベルは、内心に焦りを感じ始めていた。
「ルルベル様! 左方、ローズ軍が後退!」
伝令の報告に、ディオンの表情が僅かに険しくなる。
「続いてペペロン軍にも後退の動きがあります!」
「……ペペロンまでか」
ディオンは戦場へ視線を向けた。
自軍は耐えている。
黒壁盾兵団も健在だ。
敵の援軍をここで押さえ込むという役目も果たしている。
だが、それだけでは意味がない。
(敵援軍の本体のほとんどを止めているというのに……)
ローズ軍が下がる。
ペペロン軍も下がる。
その状態でルルベル軍だけが現在地に残ればどうなるか。
考えるまでもなかった。
孤立する。
黒壁盾兵団がどれほど頑丈であろうと、四方から攻撃され続ければ、いずれは崩れる。
ディオンは即座に決断した。
「全軍! 後退する!」
周囲の兵士たちが反応する。
「戦線を維持しつつ後退せよ! 陣形を崩すな!」
命令が次々と各隊へ伝えられていく。
黒壁盾兵団が敵を正面に捉えたまま、少しずつ下がり始めた。
だが――。
その動きを見逃す者たちではなかった。
「敵が下がるぞ!」
イドルフが叫んだ。
「今だ! 押し込め!」
ユータスも即座に動く。
後退する軍勢は、どれほど統制されていても僅かな隙が生じる。
前を向いて敵を防ぎながら、後ろへ下がる。
歩調が乱れれば、その瞬間に戦列が開く。
イドルフとユータスは、その僅かな綻びへ兵を突っ込ませた。
「行けぇ!」
兵士たちが一斉に前へ出る。
盾がぶつかる。
剣が振り下ろされる。
黒壁盾兵団が押し返すが、先ほどまでとは違う。
後退しながら戦う以上、踏み止まって受け続けることはできない。
その変化を、リボクも見逃さなかった。
「崩れた場所を狙え! 正面から全部を押す必要はない!」
兵士たちが戦列の僅かな乱れへ集中する。
一箇所を守ろうとすれば、別の場所が薄くなる。
ルルベル軍は陣形を維持しながらも、少しずつ後方へ追いやられていった。
そのさらに後方では、ノイヤーとアンナも戦況を見つめている。
敵が完全に崩れれば、いつでも追撃へ移れる。
その時を待っていた。
ディオンは前線の状況を見ながら、奥歯を噛んだ。
(これは仕方ない)
今は攻勢に出る時ではない。
(引き切るまでは受けるしかない)
多少の損害は覚悟する。
まずは孤立を避ける。
ローズ軍、ペペロン軍との戦線を再び形成できる位置まで下がればいい。
そのはずだった。
「伝令! 伝令!」
後方から兵士が駆けてくる。
その声に、ディオンが振り返った。
兵士の様子がおかしい。
息を切らし、顔には明らかな焦りが浮かんでいた。
「ルルベル様!」
「どうした!」
「後方より敵襲!」
ディオンの目が見開かれる。
「何?」
「後方を攻撃されています!」
一瞬。
何を言われたのか理解できなかった。
だが、次の言葉が容赦なく状況を突きつける。
「挟まれました!」
「な、なんだと!?」
ディオンが後方へ目を向ける。
遠くから聞こえてくる喧騒。
確かに戦闘が起きている。
「どこから来た!」
正面にはイドルフ、ユータス、リボクらの軍勢。
そして今、その反対側からも攻撃を受けている。
後退して戦線を立て直すはずだった。
その退路そのものに敵が現れた。
ディオンの胸中にあった焦りが、一気に膨らむ。
後方から襲いかかったのは――。
カートリック旅団だった。
戦闘の最初期。
シュトライザー軍から左へ逸れ、そのまま別方向へ進んでいた旅団。
それが戦場を大きく回り込み、今になってルルベル軍の後方へ姿を現したのだ。
黒壁盾兵団が正面から敵援軍を食い止めている間に、カートリック旅団はその背後へ回っていた。
ルルベル軍は前後から攻撃を受けることになった。
その報告は、帝国本軍にも届いた。
「……後方だと?」
ドイザッハ・マクシミリアンは、驚きを隠せなかった。
戦況を見渡す。
ローズ軍は押し返された。
ペペロン軍も後退している。
そして、敵援軍の主力を食い止めていたルルベル軍までもが挟撃を受けた。
(奴らはどこから来た?)
位置がおかしい。
ただ横から回り込んだだけではない。
(むしろ……本軍にまで突撃できるほど後方から来たように見える)
だが、今はその経路を考えている場合ではなかった。
ローズ。
ペペロン。
そしてルルベル。
帝国軍を構成する各軍が次々と下がり始めている。
このままでは――。
(負けではないか)
マクシミリアンの表情が険しくなる。
ここで戦線を下げ、また同じように戦うのか。
また時間を使うのか。
それでは駄目だ。
(我らは皇帝陛下の思いを達成せねばならぬ)
帝国軍がここにいる目的は、ただアーヴァルト軍と戦うことではない。
(こんなところで足踏みばかりしておれん)
マクシミリアンが立ち上がった。
そして剣を抜く。
周囲にいた兵士たちが一斉に大元帥を見る。
「本軍!」
低く響いた声が、次の瞬間には戦場を貫いた。
「これより突撃する!」
兵士たちがどよめく。
マクシミリアンは剣を前へ向けた。
「我に続けぇ!!」
帝国本軍が動いた。
マクシミリアン自身が先頭に立つ。
目指す先は一つ。
敵本陣。
ルルベル軍とペペロン軍の間。
開き始めていた戦線を、帝国本軍が一気に駆け抜けていく。
突然の動きだった。
それまで戦況を見守っていた帝国本軍が、まるごと前へ出たのだ。
しかも、他の軍を援護するためではない。
真っ直ぐに敵本陣へ向かっている。
止める軍はいない。
マクシミリアン軍は猛烈な勢いで進んだ。
一歩。
また一歩。
敵本陣との距離が縮まる。
誰が想像しただろう。
各地で戦線が動き始めたその瞬間に、帝国大元帥自身が本軍を率い、そのまま敵の指揮中枢へ突っ込んでくるなど。
だが。
本陣を目前にして、マクシミリアンの視線の先に兵士たちが現れた。
「止まれぇ!」
鋭い声が響く。
その中央に立っていたのは――。
ホーランス・ジルライト。
その周囲には、自身の部下。
本軍に残されていた予備戦力。
そして。
ヴァルディス旅団の生き残りが集まっていた。
旅団長レオンを失った兵士たち。
つい先ほどまで崩壊しかけていた者たちが、再び武器を握り、帝国本軍の前に立っている。
ホーランスが剣を抜いた。
「ここから先へは行かせん!」
帝国本軍が突っ込む。
「迎え撃てぇ!!」
両軍が激突した。
凄まじい衝撃だった。
勢いに乗った帝国兵が押し込む。
ホーランスの兵たちが受け止める。
剣がぶつかり、兵士が倒れる。
それでも戦列は開かない。
特に激しく戦っていたのは、ヴァルディス旅団の残存兵だった。
「押し返せ!」
「ここを通すな!」
レオンを失った直後だった。
その怒りをぶつけるかのように。
その死を無駄にするまいとするかのように。
兵士たちは一歩も退こうとしない。
一人が倒れれば、すぐに後ろの兵士が前へ出る。
帝国本軍の勢いを真正面から受けながら、食らいつく。
その戦いぶりは、まさに獅子奮迅だった。
マクシミリアンも剣を振るいながら前を見る。
突破できない。
勢いだけならこちらが上だ。
だが、敵もここが本陣最後の防衛線だと分かっている。
そして何より、ヴァルディス旅団の兵士たちの抵抗が激しい。
このまま正面から押し続ければ、時間を失う。
「……抜けぬか」
マクシミリアンは固執しなかった。
すぐに周囲を確認する。
「左へ逸れる!」
命令とともに帝国本軍が進路を変える。
本陣正面から離れ、左へ。
勢いを殺さず、そのまま戦場を駆け抜けていく。
その先には、先ほどローズ軍を押し返したハーネス旅団がいた。
帝国本軍は、その後方を猛烈な勢いで通過していく。
突然現れた大軍に、ハーネス旅団の兵士たちが騒然とする。
ルミエル小隊もまた、その動きに気づいた。
「何っすか、あれ……」
コルティオが目を見開く。
ラウルも振り返った。
大勢の帝国兵。
その先頭を進む一人の男。
周囲の兵士たちとは明らかに違う。
指揮官だ。
それも、ただの指揮官ではない。
ラウルはその姿を目で追った。
ドイザッハ・マクシミリアン。
ゴルディア帝国大元帥。
その男が今。
ラウルたちのすぐ後方を駆け抜けていた。




