第三十五話 強行軍
アルメリア暦174年4月7日。
王都ラピタルを発ったシュトライザー軍は、南へ向けて進軍を続けていた。
国王シャルルの命を受けたその数、およそ八千。
だが、その行軍は普段のものとはまるで違う。
「遅れるな!」
「前との間隔を空けるな!」
「進め!」
休息は最低限。
日が暮れても歩みは止まらず、夜間にも進めるところまで進む。
ゴルディア帝国が国境を越えた。
その知らせだけは全軍に伝わっている。
だが、前線で何が起きているのか。
詳しい情報までは届いていなかった。
戦況が切迫している。
だからこその強行軍だった。
◇
ルミエル小隊も、その例外ではない。
ラウルは歩きながら額の汗を拭った。
足が重い。
肩に掛かる装備も、時間が経つほど重さを増しているように感じる。
周囲を歩く兵士たちにも疲労の色が見えていた。
「さすがに……」
隣を歩いていたナタリアが口を開く。
「こんなに戦況が切迫してると、何も状況は分からないわね」
「ああ」
ラウルは前を向いたまま答えた。
軍全体がこれほど急いでいる。
何も起きていないはずはない。
それでも。
「ジルライト軍がいるんだ」
ラウルは言う。
「易々と抜かれはしないと思うが」
「そうね」
ナタリアも頷いた。
すると反対側からコルティオが会話へ入ってくる。
「エンデヴァー軍も、確かソルドーニ連邦国との国境付近に駐屯してるはずっす」
「ああ」
「援軍が出てれば、そろそろ合流できてそうっすよね」
「その可能性は高いと思う」
ラウルは答えた。
ジルライト軍が国境方面にいる。
エンデヴァー軍も近隣地域から援軍に向かえる。
そして今、自分たちシュトライザー軍も南下している。
多少の心配はある。
だが――。
おそらく大丈夫だろう。
三人の間には、まだそんな空気が残っていた。
前線で何が起きたのか。
彼らはまだ知らなかった。
◇
二日後。
強行軍を続けていたシュトライザー軍から、一つの旅団が分離した。
フェイン旅団。
ヴァレン・シュトライザーは地図を確認しながら命じる。
「フェイン旅団はここから別行動だ」
「モルドア王国との国境へ向かわせる」
帝国軍との戦争が始まったからといって、他の国境を無防備にはできない。
主力を南へ向けながらも、最低限の警戒戦力は残す必要がある。
「はっ!」
命令を受けた兵が走る。
ヴァレンは地図へ視線を戻した。
さらに翌日には、エンデヴァー軍が抜けているであろうソルドーニ連邦国方面へも、一個旅団を向かわせる予定だった。
前線へ急ぐ。
国境も守る。
限られた兵力を、必要な場所へ振り分けなければならない。
「本軍はこのまま南下する」
ヴァレンは地図を閉じた。
「急ぐぞ」
◇
その日の夜。
昼夜を問わず進み続けていたシュトライザー軍も、ようやくまとまった休息を取ることになった。
深夜から翌朝まで。
決して長くはない。
それでも兵士たちにとっては、待ち望んだ休息だった。
「やっと休めるっす……」
コルティオが力なく座り込んだ。
そのまま項垂れる。
「もう足が自分のじゃないみたいっす」
ラウルも近くへ腰を下ろした。
「まだ動いてるなら大丈夫だろ」
「厳しくないっすか?」
「事実だ」
「ラウルも疲れてるっすよね?」
「疲れてる」
ラウルは素直に答え、タオルで汗を拭った。
身体が重い。
横になれば、すぐにでも眠れそうだった。
ナタリアも近くに座ろうとして。
ふと、視線を動かした。
「……隊長たち」
ラウルとコルティオも見る。
少し離れた場所。
リシア。
コルド。
マーク。
三人が集まり、何かを話し合っていた。
地面に何かを書きながら、時折意見を交わしている。
「まだ休まないんすかね」
コルティオが呟く。
ナタリアは三人を見つめた。
「準備してるんじゃない?」
「準備?」
「戦争の」
その言葉でコルティオが黙る。
ラウルも三人を見る。
大きな戦争など、そう何度も経験するものではない。
まして自分たちにとっては初めてだった。
これまで経験した山賊との戦いとは違う。
何百。
何千。
それ以上の兵士が動く戦場。
リシアたちも、少しでもできる準備をしておこうとしているのだろう。
ラウルは自分の剣へ視線を落とした。
やがて自分も。
その中へ入る。
◇
翌朝。
「起きろ!」
「出立準備!」
兵士たちが次々と起き上がる。
短い休息は終わった。
シュトライザー軍は再び南へ向かう。
ラウルたちも装備を整え始めていた。
その時だった。
一騎の馬が陣へ駆け込んできた。
「前線より急報!」
声が響く。
「シュトライザー大将へ急報!」
周囲の兵士が道を開ける。
伝令兵は馬から飛び降りると、そのままヴァレンのもとへ走った。
◇
ヴァレンは渡された書状を開いた。
目を走らせる。
最初の数行。
表情が変わる。
さらに読む。
「……何だと」
低い声が漏れた。
そして。
手にしていた兜を地面へ叩きつけた。
ガンッ――!
周囲の者たちが息を呑む。
「ソルドーニ連邦国方面への旅団派遣はなしだ!」
ヴァレンが叫ぶ。
「すぐに出立する!」
「全軍に準備させろ!」
「はっ!」
兵士が駆け出す。
ヴァレンはもう一度書状を見る。
そこに記されていたのは、想定を遥かに超える戦況だった。
――敵軍多数。
――重装歩兵なる新装備を確認。
――戦況、不利。
そして。
ヴァレンの目が止まる。
――ドルドウィン旅団、叛乱。
――味方部隊を攻撃後、逃亡。
――現在、行方不明。
「……叛乱?」
ヴァレンの眉間に深い皺が刻まれる。
意味が分からない。
ドルドウィン旅団が。
王国軍の旅団が。
味方を攻撃した。
「何をしている……」
だが、それだけではなかった。
重装歩兵。
ヴァレンはその文字を見る。
「重装歩兵とは何だ?」
そんなものは、これまでの帝国軍には存在しなかった。
何度も国境で衝突してきた。
帝国軍についても情報を集めてきた。
それなのに。
国境砦を短期間で突破できるほどの新装備が、突然戦場へ現れた。
新たな敵。
味方の叛乱。
戦況不利。
ヴァレンは書状を強く握った。
想定していた状況とは、まるで違う。
「急がなければ……」
前線にはホーランスたちがいる。
今、この瞬間にも戦っているかもしれない。
ヴァレンは顔を上げた。
「全軍、出立を急げ!」
声が陣中へ響き渡る。
「休息は終わりだ!」
「南へ向かう!」
兵士たちが一斉に動き出した。
張られていた天幕が畳まれる。
装備を背負う。
隊列を組む。
まだ疲労は抜けていない。
それでも進まなければならない。
そして。
ラウルたちはまだ知らない。
自分たちが向かう先で。
すでに王国軍が、帝国軍だけではない敵によって大きく切り裂かれていることを。
シュトライザー軍は再び南へ向かう。
今まで以上の強行軍で。
崩れかけた戦場へ――。




