第三十二話 重装歩兵
アルメリア暦174年3月28日。
アーヴァルト王国南部。
ドルドウィン公爵領、ザイース。
ジルライト軍はこの地を拠点とし、ゴルディア帝国との国境監視任務に就いていた。
帝国との間では、これまでにも幾度となく小競り合いが起きている。
そのため国境への警戒は続けられていたが、この日の朝も、ザイースはいつもと変わらない時間を迎えていた。
◇
「もう一本!」
剣を構えたホーランス・ジルライトの声が響く。
朝の冷たい空気の中、数名の兵士と共に朝稽古を行っていた。
兵士が踏み込む。
ホーランスは剣を受け、横へ流す。
体勢を崩した兵士が慌てて距離を取った。
「踏み込みは悪くない。だが、受けられた後を考えろ」
「はっ!」
兵士が再び剣を構える。
その時だった。
「急報!」
遠くから声が響いた。
「急報ーっ!」
ホーランスが振り向く。
一人の伝令兵が、息を切らしながらこちらへ走ってきていた。
ただ事ではない。
ホーランスは剣を下ろした。
「何事だ!」
伝令兵がその前で止まり、敬礼する。
「ゴルディア帝国との国境に帝国軍襲来!」
周囲の兵士たちの表情が変わる。
「数は!」
「約三万以上!」
「……三万?」
「国境警備隊より、至急援軍を求むとのことです!」
ホーランスの顔から、朝稽古をしていた時の表情が消えた。
「すぐに全軍へ通達!」
「はっ!」
「待機中のエイゼン旅団、ミュラー旅団を先行させろ! 国境警備隊の救援へ向かわせる!」
「残る部隊も準備が整い次第、順次出る!」
「急げ!」
「はっ!」
伝令兵が走り出す。
周囲にいた兵士たちも一斉に動き始めた。
ホーランスはその場に立ったまま、僅かに眉を寄せた。
(三万以上だと……?)
あまりにも多い。
ゴルディア帝国とは、これまで何度も国境で小競り合いを繰り返している。
兵を動かせば消耗する。
武具も、食糧も、人員も必要になる。
それだけの戦力を維持しながら、さらに三万を超える大軍を用意する。
(そんな大群、どこから……?)
十分な補充は困難だと考えていた。
だが。
国境警備隊から届いた数字が正しければ、その認識を改めなければならない。
ホーランスはすぐに踵を返した。
「出陣準備だ!」
◇
同時刻。
ゴルディア帝国との国境に築かれた砦では、すでに激しい攻防が始まっていた。
「撃てぇ!」
号令とともに弓兵たちが一斉に弦を放す。
無数の矢が空を覆った。
帝国兵へ向かって降り注ぐ。
だが。
ガンッ。
ガッ。
甲高い音が連続して響いた。
「なっ……」
兵士が目を見開く。
矢は確かに当たっている。
それなのに。
帝国兵は止まらない。
「隊長!」
一人の兵士が叫ぶ。
「弓が効きません!」
「何だと!?」
砦を任されている国境警備隊長が身を乗り出した。
眼下を見る。
帝国兵たちが進んでくる。
一歩。
また一歩。
全身を覆う重厚な鎧。
飛来する矢が次々と命中しているにもかかわらず、その歩みは止まらない。
「なんなんだ……あの鎧は!」
これまで相手にしてきた帝国兵とは違う。
硬い。
弓矢を弾き、着実に前進してくる。
ゴルディア帝国が新たに投入した装備。
――重装歩兵。
砦側の兵士たちは、まだその存在を知らなかった。
◇
「前ぇ!」
帝国軍の中で、男の声が響いた。
ローズ・ギュンター。
その顔には、隠しようのない笑みが浮かんでいる。
砦から放たれる矢。
それをものともせず前進する重装歩兵。
その光景を見て、ギュンターは大きく笑った。
「ふははははっ!」
腕を振り上げる。
「進めぇ!」
「進むのだ!」
重装歩兵が前進する。
「蹂躙してしまえ!!」
「おおおおおおっ!」
重い足音が大地を揺らした。
一歩。
一歩。
帝国軍が砦へ近づいていく。
砦から矢が飛ぶ。
それでも止まらない。
「来るぞ!」
「門を守れ!」
守備兵たちが叫ぶ。
だが、重装歩兵はついに砦へ張り付いた。
門へ攻撃が集中する。
激しい衝撃音が響く。
「門が持ちません!」
「押さえろ!」
「絶対に通すな!」
必死に抵抗する。
しかし。
轟音。
門が破られた。
「入れぇ!」
帝国兵が一斉に雪崩れ込む。
国境砦の中で、再び激しい戦闘が始まった。
◇
ジルライト軍から先行した部隊が国境付近へ到達した頃。
マルクは、遠くに見える砦を見て言葉を失った。
「……嘘だろ。」
隣にいたエルザも足を止める。
何度も足を運んだことのある国境の砦。
見間違えるはずがない。
だが。
その上に翻っている旗は、アーヴァルト王国のものではなかった。
ゴルディア帝国。
帝国旗が風に揺れている。
「早すぎる!」
マルクが声を上げた。
救援要請を受けて、すぐに向かった。
それでも。
間に合わなかった。
「……間に合わないなんて。」
エルザは唇を噛んだ。
だが、すぐに表情を切り替える。
砦はすでに落ちている。
ここで無理に奪還を試みれば、被害を増やすだけだ。
「敗走した兵士を吸収する!」
エルザが声を張る。
「撤退する! 急いで!」
「了解!」
周囲の兵士たちが動き出す。
戦場から逃れてきた国境警備隊の兵士たちを集め、後方へ下がらせる。
マルクも一人の伝令兵を呼び止めた。
「ジルライト軍団長へ伝令!」
「はっ!」
「国境砦陥落!」
「我々は敗走兵を収容しながら撤退する!」
そして続ける。
「防衛陣地の設置を願う、と伝えろ!」
「はっ!」
伝令兵が走り出した。
マルクはもう一度砦を見る。
帝国旗が揺れている。
あまりにも早い。
帝国軍は、これまで戦ってきた相手とは違う。
その事実だけが、嫌というほど伝わってきた。
◇
さらに後方。
帝国軍本陣。
ドイザッハ・マクシミリアンは、次々と届く戦況報告を聞いていた。
「国境砦、陥落。」
「我が軍、砦を制圧しました。」
報告を受けても、ドイザッハの表情は大きく変わらなかった。
国境の砦を一つ落とした。
だが。
それは目的ではない。
始まりに過ぎない。
「……まだまだこれからよ。」
静かな声だった。
ドイザッハは前方へ視線を向ける。
この先に広がるのは、アーヴァルト王国の領土。
「国境を越える。」
「その先に陣を張るぞ。」
周囲の将兵が姿勢を正す。
「各軍に伝えよ。」
「はっ!」
伝令たちが一斉に動き出した。
国境砦は陥落した。
帝国軍は止まらない。
三万を超える軍勢が、アーヴァルト王国へ足を踏み入れようとしている。
ゴルディア帝国が長い年月をかけて準備してきた大侵攻。
その最初の一撃を、アーヴァルト王国は受けた。
だが。
戦争は――。
まだ、始まったばかりだった。




