第二十二話 決断
ラウルたちは、ドーハ山の斜面を登り続けていた。
足場は悪い。
木の根が地面から張り出し、湿った土が靴の裏を滑らせる。
それでも止まることはできなかった。
負傷したオベール中尉を支え、もう一人の負傷兵を助けながら、伐採業者たちを連れて少しでも山の上へ向かう。
どれほど進んだのか。
ラウルにも分からなくなっていた。
「ここで止まります」
先頭を進んでいたラウルが足を止めた。
斜面に倒れた大木があった。
太い幹が横たわり、下からこちらを見通しにくくしている。
身を隠すには使える。
「大木の裏へ。なるべく姿を見せないでください」
伐採業者たちが急いで移動する。
負傷兵もその陰へ運び込まれた。
ラウルは大木からわずかに顔を出した。
斜面の下を見る。
木々が重なっている。
風に枝葉が揺れていた。
敵の姿はない。
だが、諦めたとは思えなかった。
ラウルはしばらく斜面を見つめたあと、大木の陰へ戻った。
「ナタリア」
「うん」
「オベール中尉は?」
ナタリアはオベール中尉のそばに膝をついていた。
手には血が付いている。
持っていた包帯だけでは足りず、集められるだけの布を集めて傷口を押さえていた。
「……息はしてる」
ナタリアの声は小さかった。
「でも、かなり危ないと思う。出血が多すぎる」
「動かせるか?」
その問いに、ナタリアはすぐには答えなかった。
オベール中尉の顔を見る。
そして、首を横に振った。
「これ以上は……分からない。少なくとも、さっきみたいに急いで運ぶのは危険だと思う」
「そうか」
ラウルは隣を見る。
もう一人の兵士も横たわっていた。
「そっちは?」
「胸を斬られてる。でも傷は中尉ほど深くない。今すぐ命が危ない状態ではないと思う」
「分かった」
少し離れたところでは、コルティオともう一人の兵士が伐採業者たちを確認している。
一人ずつ声をかけ、怪我の有無を確かめていた。
ラウルはその様子を見ながら、再び周囲へ視線を向けた。
敵は見えない。
だからこそ、考えなければならなかった。
この先、どうする。
最初に浮かんだのは、このまま山を登ることだった。
できる限り敵から距離を取り、ルミエル隊長たちの救援を待つ。
もっとも生存を優先した選択に思える。
だが。
ラウルはオベール中尉を見る。
無理だ。
今の状態でさらに山を登らせれば、オベール中尉が持たない可能性がある。
ならば、ここに残すか。
その考えが浮かんだ瞬間、ラウルの眉がわずかに動いた。
負傷者をここへ残す。
自分たちは別方向から山を下りる。
敵が負傷者を見つければ、足止めになるかもしれない。
その間に護衛対象を逃がす。
「……違うな」
小さく呟いた。
そんなものは作戦とは言えない。
では、ここで戦うか。
地形を利用して敵を迎え撃つ。
撃退できれば、負傷者を置き去りにする必要もない。
だが、危険すぎる。
敵の人数は分からない。
こちらには守らなければならない伐採業者がいる。
さらに二人の負傷者。
そして何より――。
ラウルは倒れているオベール中尉を見る。
指揮官がいない。
オベール中尉が指揮できない以上、まともな部隊行動を取ることすら難しい。
どれを選んでも危険だった。
山を登れば、負傷者が持たない。
置いて逃げれば、二人を見捨てることになる。
戦えば、全員が死ぬ可能性がある。
「ラウル」
声に振り向く。
コルティオだった。
「伐採業者の確認、終わったっす」
「どうだった?」
「動けないほどの怪我人はいないっす。細かい怪我はありますけど、歩けるっす」
「そうか」
コルティオはそのままナタリアの横へしゃがんだ。
「オベール中尉は?」
「かなり危ない」
ナタリアが答える。
「もう一人は?」
「胸を斬られてる。でも、今のところは大丈夫」
「……そうっすか」
コルティオの表情が曇った。
沈黙が落ちる。
ラウルは再び斜面の下へ目を向けた。
決めなければならない。
だが、何を選ぶ。
その時だった。
「……ラウル」
かすかな声が聞こえた。
振り返る。
オベール中尉の目が、わずかに開いていた。
「中尉?」
ラウルが近づく。
次の瞬間。
腕を掴まれた。
「……っ」
驚くほど強い力だった。
オベール中尉の指が、ラウルの腕に食い込む。
「中尉、無理しないで」
ナタリアが止めようとする。
だが、オベール中尉は離さなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、ラウルだけを見ている。
「ラウル……ローウェン」
「はい」
「指揮を……お前に譲渡する」
ラウルの目がわずかに見開かれた。
コルティオも息を呑む。
「俺に?」
「ああ……」
オベール中尉が苦しそうに息を吸った。
それでも腕を掴む力は緩まない。
「必ず……護衛対象を守れ」
ラウルは何も言えなかった。
「お前なら……できる」
力強い声だった。
傷つき、まともに呼吸することすら難しいはずなのに、その言葉だけははっきりと聞こえた。
そして。
オベール中尉の手から力が抜けた。
腕が地面へ落ちる。
「中尉!」
ナタリアがすぐに身体を寄せる。
「オベール中尉!」
コルティオも立ち上がった。
ラウルだけが動かなかった。
ナタリアがオベール中尉の口元へ顔を近づける。
胸を見る。
「……大丈夫」
短く息を吐いた。
「意識を失っただけ。まだ息はしてる」
コルティオが大きく息を吐く。
「よかった……」
ラウルは、自分の腕を見た。
まだ、掴まれた感触が残っていた。
その場所を反対の手で強く握る。
指揮をお前に譲渡する。
必ず護衛対象を守れ。
お前ならできる。
ラウルは目を閉じた。
もう、誰かが決めるのを待つことはできない。
自分が決める。
選んだ結果も。
失敗した時の責任も。
ここにいる者たちの命も。
ラウルは目を開いた。
ナタリアを見る。
彼女もこちらを見ていた。
不安はある。
だが、その目は逸れなかった。
次にコルティオを見る。
コルティオも何も言わない。
いつもの軽い調子は消えていた。
それでも、小さく頷いた。
二人とも同じだった。
逃げるだけでは駄目だ。
負傷者も置いていかない。
護衛対象も守る。
ならば、残る道は一つしかない。
ラウルはゆっくりと立ち上がった。
もう一度、斜面の下を見る。
敵の姿は、まだない。
だが来る。
次は追われる側ではない。
「……撃退する」
ナタリアが立ち上がる。
コルティオも続いた。
ラウルは静かに斜面を見据えた。
初めて、自分の判断で人の命を背負う。
その重さを腕に残った感触とともに受け止めながら。
ラウルは、戦うことを決断した。




