第十一話 命運
深夜。
軍務長監査のために借り受けた宿舎の一室は、静まり返っていた。
窓から差し込む僅かな月明かりが、机の上に積まれた資料を淡く照らしている。
ジル・オルテット中佐とリットマン・デイビス少尉は、それぞれ壁際に置かれた寝台で身体を休めていた。
物音一つない。
廊下も、外も。
全てが眠りについたように静かだった。
その部屋へ。
何かが近づいていた。
扉の前で気配が止まる。
しばらくすると、取っ手がゆっくりと下がった。
軋みすら立てぬよう、扉が僅かに開いていく。
暗闇の中から三つの人影が滑り込んだ。
一人は机へ向かう。
残る二人は、それぞれジルとリットマンの寝台近くへ立った。
顔は布で覆われている。
息遣いすら抑え、寝台の様子を窺っていた。
机へ向かった人影が、積まれていた資料へ手を伸ばす。
一枚。
二枚。
報告書を纏めて掴み上げた。
その瞬間だった。
ジルが寝台から飛び出した。
「なっ――」
人影が振り返るより早く、ジルは目の前に立っていた男の両手首を掴んだ。
身体を捻り、腕を押さえ込む。
「動くな。」
寝台が激しく軋んだ音で、リットマンも目を覚ます。
目の前にいた人影の手には、月明かりを反射する刃が握られていた。
リットマンは考えるより先に飛び付いた。
刃を持つ腕を両手で押さえ、床へ倒れ込む。
「くっ……!」
人影は腕を振り払おうとする。
リットマンは手首を捻り上げ、握られていたナイフを床へ落とした。
金属音が部屋に響く。
そのままナイフを拾い上げ、素早く距離を取った。
ジルは押さえ込んだ人影を睨む。
「何者だ。」
返事はなかった。
机の前にいた人影は、掴んだ資料を胸元へ抱え込む。
そして、扉へ向かって駆け出した。
「待て!」
リットマンが進路を塞ごうとする。
その時、ナイフを奪われた人影がジルの脇腹へ蹴りを放った。
「ぐっ……!」
ジルの身体が後方へ押し戻される。
拘束されていた人影も腕を振り解いた。
二人は同時に窓へ向かう。
窓枠を蹴り、そのまま暗い外へ飛び出した。
残る一人は扉へ手を掛けていた。
リットマンは追いすがる。
「逃がすか!」
手にしていたナイフを振るった。
刃先が人影の左手首を掠める。
「うっ!」
短い呻き声。
しかし、人影は資料を手放さなかった。
扉を押し開け、そのまま廊下の暗闇へ消えていく。
リットマンは追おうとしたが、窓から逃げた者達の足音も遠ざかっていた。
廊下の灯りが少ない状態で、無闇に追えば待ち伏せを受ける可能性がある。
足を止め、部屋へ戻った。
燭台へ火を灯す。
薄暗かった室内が照らされ、倒れた椅子や乱れた資料が姿を現した。
「中佐。」
リットマンはジルへ手を差し出す。
ジルはその手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫ですか。」
「ああ。」
「少し蹴られただけだ。」
ジルは脇腹を押さえながら、開け放たれた窓を見る。
リットマンは床に落ちた血の跡へ目を向けた。
「ガナナ達でしょうか。」
ジルは首を横へ振った。
「いや。」
「体格から見て、ガナナではない。」
「他は分からんな。」
リットマンは机の上を確認する。
幾つかの資料がなくなっていた。
「資料を数点、持っていかれたようです。」
「問題ない。」
ジルは乱れた資料を手に取った。
「持っていかれたのは、ガナナ達の経歴と昨日までの聞き取り内容を簡単に纏めたものだけだ。」
「カエサル・サウスの証言や、明日行う事情聴取の内容は別に保管してある。」
リットマンは僅かに安堵した。
「では、相手にはこちらがどこまで把握しているか分からない。」
「ああ。」
ジルは床に残った僅かな血を見下ろす。
「それに。」
「一つ、置き土産も残していった。」
◇ ◇ ◇
翌朝。
部屋の扉が叩かれた。
「失礼します。」
入ってきたのは、ルドー・ガルドフ中尉だった。
昨日までと変わらぬ落ち着いた表情を浮かべている。
「監査最終日となりましたが。」
「何か進展はありましたか。」
ジルは机の前へ座ったまま答えた。
「まだ調査中だ。」
「そうですか。」
ルドーは部屋の中へ視線を巡らせる。
倒れていた椅子は戻されている。
窓も閉じられている。
昨夜、何かが起きた痕跡は既に片付けられていた。
「監査に必要なものがあれば、遠慮なくお申し付けください。」
「結構です。」
リットマンが間へ入った。
「本日の予定はこちらで決めています。」
「小隊の方々には通常通り待機するようお伝えください。」
ルドーは僅かに目を細めた。
「承知しました。」
一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
リットマンは小声で尋ねた。
「昨日の探りでしょうか。」
「さあな。」
ジルは立ち上がり、上着を整える。
「直接関わっているのか。」
「単に様子を見に来ただけなのか。」
「今の段階では判断できん。」
机の上から資料を手に取る。
「それよりも。」
「昨日の件の聴取を進めるぞ。」
「はい。」
二人は部屋を出た。
◇ ◇ ◇
昼頃。
ラウルとコルティオは、宿舎の隅にある小さな部屋へジェフ・ハーマンを呼んでいた。
そこにはカエサルもいる。
ジェフは不安そうな顔で、三人を見回した。
「話って……何だ。」
コルティオが椅子を勧める。
「昨日、カエサルが軍務長に話したことっす。」
ジェフの表情が強張る。
カエサルは俯きながらも、自分がバラン村で見たことを話し始めた。
村に山賊はいなかったこと。
ガナナが放火を命じたこと。
逃げ惑う住民達。
燃え崩れる家屋。
そして、隣にいたクルスが「山賊はいないと報告した」と呟いていたこと。
全てを聞き終えた時。
ジェフの身体は震えていた。
膝の上で組んだ手が、僅かに音を立てるほど強く握られている。
「……ごめん。」
ジェフが俯いたまま呟いた。
コルティオは心配そうに顔を覗き込む。
「どうしたんすか。」
「何が、ごめんなんすか。」
ジェフはすぐには答えなかった。
何度も息を吸い、口を開こうとしては閉じる。
ラウルは何も急かさず、静かに待った。
やがて、ジェフは震える声で話し始めた。
「クルスさんが死んだ夜。」
「コルティオが、廊下で誰かを見たって言ってただろ。」
「ああ。」
コルティオが頷く。
「俺が部屋に戻った後っすね。」
「その後。」
「俺も部屋を出たんだ。」
ジェフは膝を見つめたまま続ける。
「眠れなくて。」
「少し歩こうと思った。」
「階段の近くまで行った時、話し声が聞こえた。」
息が詰まる。
「見てみたら……。」
「ガナナ大尉が、誰かと言い争っていた。」
カエサルが顔を上げる。
ジェフの声は次第に小さくなっていく。
「暗くて、最初は誰か分からなかった。」
「でも。」
「ガナナ大尉が、その人を掴んで。」
「階段から……突き落とした。」
部屋の空気が凍り付いた。
「落ちた人の顔が、少しだけ見えた。」
「クルスさんだった。」
コルティオが目を見開く。
「ジェイオスさんを……。」
ジェフは頭を抱えた。
「怖かった。」
「見つかったら、俺も殺されると思った。」
「だから、すぐ部屋へ戻った。」
「誰にも言えなかった。」
「監査で聞かれても……言えなかった。」
涙が膝へ落ちる。
「ごめん。」
「俺がもっと早く話していれば。」
ラウルは静かに首を横へ振った。
「ジェフ。」
ジェフが顔を上げる。
「今、話してくれた。」
「それでいい。」
「ありがとう。」
ジェフの唇が震える。
コルティオも大きく頷いた。
「そうっす。」
「今からでも遅くないっすよ。」
カエサルはジェフの隣へ座った。
「僕も。」
「昨日まで何も話せなかった。」
ジェフは涙を拭いながら、カエサルを見る。
ラウルは立ち上がった。
「軍務長へ伝えよう。」
「これは決定的な証言になる。」
◇ ◇ ◇
夕方。
ガナナ小隊長室には、五人の軍人が集まっていた。
ボートン・ガナナ大尉。
ルドー・ガルドフ中尉。
サイラフ・ゲルマット少尉。
そして、ジル・オルテット中佐とリットマン・デイビス少尉。
ガナナは椅子へ深く腰掛け、余裕を見せるように口元を歪めていた。
「それで。」
「監査の結果はどうでしたかね。」
その声には、隠し切れない嘲りが混じっている。
ジルは三人の様子を静かに見回した。
ガナナ達は、昨夜奪った資料を確認しているはずだった。
そこに記されていたのは、監査初日までに集めた情報がほとんどだ。
カエサルの証言も。
ジェフの証言も。
そこにはない。
自分達が何を掴まれているのか。
まだ気付いていない。
ジルは困ったように息を吐いた。
「それが。」
「かなり重大なことが分かりましてね。」
ルドーの表情が僅かに動く。
「重大なこととは。」
ジルは答えず、リットマンへ視線を送った。
リットマンはサイラフを見る。
「サイラフ・ゲルマット少尉。」
「左手首の怪我は、どうされたのですか。」
サイラフの左手首には、布が巻かれていた。
指摘された瞬間、腕を身体の後ろへ隠す。
「これは……。」
「昨日、訓練中に怪我をしてしまいまして。」
「そうですか。」
リットマンは静かに頷く。
ジルが口を開いた。
「それは、昨夜。」
「私達の部屋へ侵入した際に負った傷ではありませんか。」
サイラフの顔から血の気が引いた。
「そ、そんなことは……。」
ルドーはすぐにジルへ向き直る。
「襲われたというのは、どういうことでしょうか。」
リットマンが昨夜の出来事を説明した。
三人の人影が部屋へ侵入したこと。
資料を奪おうとしたこと。
そのうち一人がナイフを所持していたこと。
逃走した一人の左手首へ傷を負わせたこと。
サイラフは俯き、包帯を巻いた手首を押さえる。
リットマンは言った。
「そして。」
「昨夜侵入した者の一人が、あなたであることは既に断定できています。」
「何を根拠に。」
ルドーの声が低くなる。
「暗闇の中だったのでしょう。」
「顔を確認できたとは思えませんが。」
ジルは表情を変えなかった。
「昨夜侵入した三名のうち。」
「既に二名から自供を得ている。」
サイラフが息を呑んだ。
額から汗が流れ落ちる。
尋常ではない量だった。
そして、助けを求めるようにガナナを見る。
ガナナは顔を動かさなかった。
しかし、椅子の肘掛けを掴む手に僅かに力が入る。
ジルはその反応を見逃さない。
「サイラフ少尉。」
「昨夜の侵入については、後ほど詳しく話を聞きます。」
「次に。」
視線をルドーへ移す。
「ルドー・ガルドフ中尉。」
「あなたについても、幾つか確認しなければなりません。」
ルドーは黙ったままジルを見返す。
「山賊討伐任務において。」
「あなたは負傷者を救護せず、置き去りにするよう命じた。」
「そのような証言を得ています。」
ルドーは強い口調で否定した。
「間違いです。」
「新兵共が、自分達の行動を正当化するために虚偽を述べているのでしょう。」
「新兵だけではありません。」
リットマンがすかさず言葉を重ねる。
「任務へ同行した複数の兵士からも、同様の証言を得ています。」
ルドーの口が止まる。
リットマンは資料を開いた。
「あなたが負傷者を見捨てるよう指示したこと。」
「ラウル・ローウェン達が命令に背き、救護へ向かったこと。」
「その後、報告書の内容が変更されたこと。」
「複数の証言が一致しています。」
ジルは最後にガナナを見た。
「そして。」
「ボートン・ガナナ大尉。」
ガナナは椅子に座ったまま、顎を上げる。
「あなたは山賊討伐任務に際し。」
「バラン村に山賊が潜伏していないという報告を受けながら、故意に村へ火を放つよう命令した。」
「その結果。」
「村と村民に、甚大な被害を与えた疑いがあります。」
ジルの声は静かだった。
だが、逃げ道を塞ぐような重さがあった。
「この件について。」
「あなたから詳しく事情を聞かなければなりません。」
ガナナはしばらく黙っていた。
やがて。
「ガハハハハハッ!」
大声で笑い始めた。
「何を言い出すかと思えば。」
「そんな事実などないわ!」
机を叩く。
「山賊は村に潜伏していた。」
「俺達は任務を遂行しただけだ。」
「火が広がったのは不運な事故だ。」
ジルは冷静に問い返す。
「山賊不在の報告を行った兵士がいます。」
「知らんな。」
「放火命令を聞いた兵士もいます。」
「そいつらが嘘をついているだけだ。」
「村で見張りをしていた者も証言しました。」
「新兵の戯言だ!」
その時。
扉が開いた。
五人の軍務長所属の兵士が、部屋へ入ってくる。
ガナナは勢いよく立ち上がった。
「何のつもりだ!」
「俺を誰だと思ってやがる!」
軍務長の兵士達は、ガナナ、ルドー、サイラフの背後へ回った。
ジルは立ち上がる。
「ガナナ大尉。」
「あなたには、軍務長までご同行願う。」
「ふざけるな!」
ガナナは拳を握る。
「証拠もなしに、王国軍の大尉を連行するつもりか!」
「証拠ならあります。」
ジルの言葉に、ガナナの動きが止まった。
「クルス・ジェイオス殺害の件でね。」
ガナナの目が大きく見開かれる。
初めて、余裕の表情が崩れた。
「何……?」
「クルス・ジェイオスを階段から突き落としたところを。」
「目撃した者がいます。」
部屋が静まり返る。
ジルは真っ直ぐガナナを見据えた。
「全て話してもらいますよ。」
「ボートン・ガナナ大尉。」
軍務長の兵士がガナナの両腕を掴む。
「離せ!」
ガナナは振り払おうとした。
だが、複数の兵士に押さえられ、身動きが取れなくなる。
ルドーは抵抗しなかった。
ただ厳しい表情のまま、何かを考えている。
サイラフは汗を流し続け、力なく俯いていた。
「連行しろ。」
ジルの命令に、兵士達が動き出す。
ガナナの怒鳴り声が、宿舎中へ響いた。
◇ ◇ ◇
宿舎の前。
ガナナ、ルドー、サイラフの三人が、軍務長の兵士達に囲まれて出てきた。
異変を聞きつけた小隊員達が、離れた場所からその様子を見守っている。
誰も声を出さなかった。
ラウル。
コルティオ。
ジェフ。
そしてカエサルも、その中にいた。
ガナナは周囲を睨み付けながら歩いていく。
「見世物じゃねぇぞ!」
怒鳴り声に、兵士達が身体を強張らせる。
それでも、以前のように道を空けて怯えるだけではなかった。
皆が、連れていかれるガナナを見ていた。
ルドーは無言のまま前を向く。
サイラフは左手首を押さえ、俯いていた。
三人が軍務長の兵士達に連れられ、宿舎から離れていく。
その姿が見えなくなった頃。
ジルとリットマンがラウル達のもとへ歩いてきた。
リットマンが静かに説明する。
「三人は、それぞれ別の容疑で軍務長へ連行しました。」
「ガナナ大尉についてはクルス・ジェイオス殺害の疑い。」
「ゲルマット少尉については、昨夜の監査室への侵入および襲撃。」
「ガルドフ中尉については、任務中の救護放棄と虚偽報告への関与です。」
ラウルは尋ねる。
「バラン村の件は、どうなるのでしょうか。」
「これから詳しく調査します。」
リットマンは答えた。
「既に、現場へ同行した兵士のうち数名を軍務長へ移送しています。」
「証言を突き合わせれば、放火命令の経緯も明らかになるでしょう。」
「関与が認められれば。」
「バラン村の件についても、相応の処罰が下されます。」
ジルはラウル達を見回した。
「今回の監査に協力してくれたこと。」
「感謝する。」
「君達が証言してくれなければ、ここまで辿り着くことはできなかった。」
コルティオは首を横へ振る。
「俺達だけじゃないっす。」
「カエサルと、ジェフが話してくれたからっす。」
「ああ。」
ジルは頷いた。
「全員の証言が必要だった。」
そしてカエサルを見る。
「サウス君。」
「君にも軍務長へ同行してもらう。」
カエサルの表情が僅かに強張る。
ジルは穏やかに続けた。
「証言の詳細を正式な記録へ残す必要がある。」
「君を疑っているわけではない。」
「我々が責任を持って守る。」
カエサルは少し迷った後、頷いた。
「……はい。」
リットマンがカエサルの隣へ立つ。
二人はジルと共に歩き始めた。
数歩進んだところで、カエサルが振り返る。
ラウル達を見つめ、小さく頭を下げた。
コルティオは大きく手を振る。
「また戻ってくるっすよ!」
カエサルは僅かに笑った。
そして、軍務長の二人と共に去っていく。
残された兵士達の間には、長い沈黙が流れた。
今まで小隊を支配していた者達がいなくなった。
だが。
これで全てが終わったわけではない。
ガナナが罪を認めるのか。
バラン村の真実が明らかになるのか。
クルスの死が正式に殺人として認められるのか。
何一つ、まだ決まってはいなかった。
コルティオが遠ざかる背中を見ながら呟く。
「これから。」
「どうなるんすかね。」
ラウルは軍務長へ連れていかれる者達が消えた道を見つめた。
「きっと。」
「中佐達が何とかしてくれるさ。」
その言葉に、コルティオは静かに頷いた。
ガナナ小隊の命運は。
今、彼らの手を離れようとしていた。




