08 情報開示
静寂に包まれた私室で、鏡の表面が不穏な青い光を帯びて明滅した。
『――該当者の照合が完了しました。現在、治療院内で白雪姫殿下の至近距離に存在する対象は二名です。
一、カルロス・ライド。45歳男性。職業、王立治療院所属の医師。
二、ジャック・マロウ。23歳男性。システム上に登録された職業、ファーランド王国外交官』
「……『登録された』と言ったな」
クレメンティアの眼光が冷たく光った。細部の違和感を見逃さない彼女の理知が、鏡の微妙な表現の差異を捕らえる。
「そのジャックという男の、具体的な職務内容を開示せよ」
『了解しました。過去の行動ログにおける主要な活動内容を出力します――外交交渉、調停、住民扇動、重要文書窃盗、拠点放火……』
「……ありていに言えば、他国の工作員だな?」
『いいえ。本システムに登録された公式な職業データは『外交官』にございます』
「ふふ、頑ななシステムだな。まあ良い」
形式的な分類に固執する鏡の融通の利かなさに失笑を漏らし、クレメンティアはすぐに実用的な質問へと切り替えた。
「ジャックの身分を物理的に証明するものや、此度の非公式活動の目的を示す客観的証拠はあるか?」
『本国からの指令文書は、閲覧直後に焼却処理されたため現物は存在しません。ただし――対象が着用している上着の右襟の裏地に、ファーランド王国の非公式部局に所属する者に用いられる身分証が縫い隠されています』
「確定証拠だな。……しかし、外交問題としてファーランドへ公式な責任追及をするのは難しいか。問い詰めたところで、ただの暴走した下級官吏としてトカゲの尻尾切りにされるのが落ちだ」
王妃は国際政治の利害を算出し、切り捨てた。
「……白雪姫との関わりの経緯は?」
『山岳民の集落に流れていた「虐待された哀れな姫」という情報を現地協力者経由で察知し、政治的カードとして利用するための『身柄の拉致』を目的として接近した模様です』
「なるほど。流言飛語が外部の脅威を引き寄せたというわけか」
すべての整合性が取れた。
クレメンティアは老顔の変装を解く薬品を素早く肌に塗り、元通りの冷厳で美しい王妃の顔へと戻った。そのまま部屋の扉を開け、廊下に控えていた信頼できる精鋭の騎士たちへと短い命令を下す。
「――これより治療院へ向かう。無用な恐怖を避けるため、全員、威圧感のない平民の服に着替えよ。不届き者の身柄を確保し、安全に白雪を城へ連れ戻す事を第一目標とする」
「ハッ!」
騎士たちが慌ただしく準備を行う中、クレメンティアは従者に新たなバスケットを持って来るよう指示を飛ばした。
王立治療院の前に、裕福な平民が使うような一台の簡素な馬車が静かに停まった。
その扉から降り立った女性を目にした瞬間、通りかかった町人たちの顔が一斉に引き攣った。身に纏っているのは地味な平民の麻のドレスであり、腕にはパンの入ったバスケットを抱えている。しかし、立ち振る舞いから漏れ出る圧倒的な気品と、周囲を圧する絶対的な威厳は隠しようもなかった。
クレメンティアは固まる町人たちの視線など一瞥もくれず、同じく平民の服を着た精鋭の騎士たちを従え、堂々と治療院のドアを押し開けた。
「――栄養のある物を持ってきたぞ」
聞き覚えのない凛とした声に、ベッドの脇で祈っていた白雪姫が跳ね起きるように振り返る。
姫の目に飛び込んできたのは、先ほどまで一緒にいたはずの優しげな老婆ではなかった。そこに立っていたのは――自らを疎み、塔と追いやったと思われる『氷の王妃』その人であった。
なぜか平民の衣服を纏ってはいるが、見間違えるはずもない。両脇には明らかに只者ではない手練れの男たちが控えている。
(――ああ、追いつかれてしまった)
絶望が白雪姫の全身を駆け抜ける。ここから逃げ出すことは不可能な構造になっていた。逃げ出せば、ベッドで死に直面している『アレックス様』を見捨てることになる。
「……久しいな、白雪姫。息災であったか?」
「お、王妃様におかれましては……ご、ご機嫌麗しく……ッ!」
白雪姫は震える声で精一杯の礼をとった。しかし次の瞬間、クレメンティアの美貌の眉が、不快感を隠さずにピクリと跳ね上がった。
(ひっ……! 挨拶の仕方を間違えたかしら……!?)
背中に嫌な汗が吹き出し、恐怖で喉が引き攣る白雪姫。だが、王妃から放たれた言葉は、姫の予想を遥か斜め上へと飛び越えるものだった。
「――白雪姫よ。公的な場ではそれで構わぬが、このような私的な場においては『お母様』と呼ぶようにと、最初に会った時に指導していたはずだが?」
「……え?」
「さあ、お昼がまだだろう。焼き立てのパンを持ってきた」
騎士の一人が手早く引き寄せた丸椅子へ、クレメンティアは優雅な所作で腰掛けた。バスケットから芳醇な香りのする麦パンを取り出し、固まっている白雪姫の手元へと差し出す。
白雪姫は「毒が入っているのでは」という恐怖から、差し出されたパンをただ凝視したまま、受け取ることしかできずに固まってしまった。
「……どうした。毒殺を疑うか?」
「あ、あの……! いえ、そのような……!」
「――大変結構」
弁明しようとする姫を遮り、クレメンティアは満足げに小さく頷いた。
「王族たるもの、誰から提示された食事であろうと常に毒殺を警戒せよ。その猜疑心と危機管理能力は評価する。……よろしい、ではこちらを食べなさい」
クレメンティアは毒見を示すように、手元のパンの端を一口分だけ手でちぎって自らの口へと運んだ。しゃくりと咀嚼して呑み込んで見せると、毒がないことを確認したその「ちぎり取られた残りのパン」を白雪姫の手へと握らせ、代わりに未毒見のパンを素早く回収した。
自分の手元に残された「一口欠けたパン」と、王妃のどこかズレているロジックを前に、白雪姫はただただ唖然として立ち尽くすしかなかった。




