09 白雪姫
王妃の隣に小さくなって腰掛け、白雪姫はもはや味の分からないパンを機械的に齧っていた。そんな姫を横目に、クレメンティアは静かに命を下す。
「――さて、そろそろこの男を起こしてやろう。白雪姫、お前は少し後ろの物陰へ下がりなさい。……医師、気付けを」
「は、はいッ!」
指名された医師が弾かれたように駆けつけ、事前に準備していた強烈な気付け薬の液体を、横たわる青年の口へと流し込んだ。
「ガハッ……! ゲホッ、ゴホッ……!?」
強烈な苦味と刺激に激しくむせ返り、青年は一気に目を見開いた。しかしまだ身体には麻痺が残っており、満足に動くことはできない。焦燥に駆られる彼の視界に飛び込んできたのは、上から見下ろすクレメンティアの冷ややかな美貌であった。
「――ジャック・マロウ。外交の茶席で倒れたようだが、何か思い出せるか?」
王妃の姿を視認した瞬間、男の顔から血の気が引いた。残る痺れで上手く回らない舌を必死に動かし、取り繕うように言葉を紡ぐ。
「お、王妃様におかれまひては……ご心配には……及びません……。ただ、今朝方はらの記憶が……どうも曖昧でひて……」
「うむ。ジャックよ、突然茶席で倒れるなど、日頃の過酷な公務で疲れが溜まっていたのだろう。無理もない」
クレメンティアは一切の感情を交えず、淡々と嘘の公式記録を覆いかぶせていく。
「王宮内に特別な部屋を用意してある。そこでゆるりと体を休めるがよい。……騎士よ、この者を『特別室』へ案内せよ」
「ハッ!」
平民の服を着た精鋭の騎士たちが素早く歩み寄り、抗う術のない男の両脇を強引に抱え上げた。そのまま治療院の外に用意された馬車へと押し込まれていく。その行く先である『特別室』が、陽の光も届かぬ地下の政治犯用取調室であることを、男は未だに気付いては居なかった。
騒動が収まると、クレメンティアは壁際で呆然と佇んでいた白雪姫へと向き直った。
「――さて。いまのやり取りを聞いていたな、白雪姫」
「え……? は、はい……」
「貴人、特に王族や外交官にとって、他者の名を間違えることは極めて重大な侮辱行為となる。
妾はいま、あの男に対して二度も『ジャック』と呼びかけた。……そしてあの者は、それを何一つ否定しなかった。これが何を意味するか分かるか?」
白雪姫は理解が追いつかず、ただ蒼白な顔で首を振るばかりだった。
「あの者は、隣国の第二王子アレックスなどではない。我が国への浸透を狙うファーランド王国の工作員――本名をジャック・マロウという」
「!?」
「里に出入りしている山岳民から『孤立した哀れな姫』の噂を聞きつけ、政治的価値のある身柄を騙し、拉致しようと接近してきたのだ」
「そんな……アレックス様が……工作員……?」
白雪姫の頭の中で、信じていた世界が音を立てて崩れ去っていった。自分が運命を感じ、心を寄せかけた気品ある王子様――それは自分を助けに来た救世主などではなく、噂と無知につけ込んで自分を捕らえようとした、ただの犯罪者であったのだと。
混乱と絶望の渦中に叩き落された少女を、クレメンティアはただ冷ややかな、しかしどこか見守るような眼光で見つめていた。
クレメンティアは白雪姫の正面へと歩み寄り、背筋をぴしりと糺して佇んだ。ここが薄暗い治療院の一室であることすら忘れさせるほど、その場にはまるで冷たい城の玉座の間のごとき、張り詰めた緊張感が満ちていた。
「――白雪姫よ。妾が先王の崩御後も女王として即位せず、頑なに『王妃』の地位にとどまり続けている理由が分かるか?」
「いいえ……分かりません……」
気圧されるように、白雪姫は細い声を絞り出すのが精一杯だった。
「妾がこの座にあるのは、其方が成長して正式に女王として即位し、この国の政務を任せられるその日までだ。
其方が戴冠を果たした瞬間に、妾は身を引く。ゆえに王位は今も空位のまま据え置いてあるのだ。……まあ、近隣諸国や閣僚からの圧力は実に煩わしいがな」
白雪姫の頭の中は、激しい混乱に苛まれていた。
王妃は自分を疎み、邪魔者として排除したがっているのではなかったのか? 自分を殺そうとしていたのではなかったのか?
「……其方が真の女王となった後は、妾を政敵として幽閉しようと、国政を簒奪していた『毒婦』として絞首台に送ろうと、好きにするがいい」
静かに言い放つと、あの冷酷無比と恐れられる『鉄の王妃』が、一転して白雪姫の前で深々と頭を下げた。優雅で、それでいて微かな揺らぎもない完璧な謝罪の礼。
「国政にかまけ、其方に向き合う時間を怠った……など、其方にとっては虚しい言い訳にもなるまい。
予算さえ適正に執行されていれば良しとし、根も葉もない過剰な忖度と流言飛語によって、周囲が其方を静かに追い詰めていた実態に気づけなかった……。
すべては、データと指標のみを過信した妾の決定的な敗北であり、落ち度だ」
その言葉を聞いた瞬間、白雪姫の目から溢れ出た涙が頬を伝い落とした。
姫はそっと手を伸ばし、頭を下げ続ける王妃の腕を支え、その身体を静かに引き起こした。
「……もう結構です、お母様」
「白雪……?」
「私も……私自身も周囲の噂に惑わされ、お母様が私を殺そうとしているのだと、頑なに信じ込んでいた愚かな一人だったのですから……」
白雪姫は、幼い子が母の温もりにすがるかのように、懸命に王妃の胸へと飛び込み、その背中を強く抱きしめた。
「今の私には、何が本当の真実で、何が偽りであるのかを見分ける術すらありません……。
ですからどうか、お母様。私に教えてください。正しく世界を見つめ、この国の人々を真に良く導いていける術を……!」
一瞬の驚きに目を細めたクレメンティアだったが、すぐに自らの細い腕を回し、腕の中の少女を力強く抱きしめ返した。
「……ああ、約束しよう。妾の持つすべての知見を、其方に授けよう」
白雪姫は、母の胸に顔を埋めた。
クレメンティアは、そんな娘をただ静かに抱きしめていた。




