06 王子様
鏡の処方通りに調合した薬品は、クレメンティアの滑らかな肌に深い皺を刻み、艶やかな髪をみすぼらしい灰白色へと変貌させた。継ぎはぎだらけの襤褸を纏い、背を丸めた王妃は、単身で山岳民の潜む険しい山嶺へと足を踏み入れた。
鬱蒼とした原生林をぬけ、事前に掴んでいた報告通りの場所――鉱夫たちが身を寄せる荒れた丸太小屋へと辿り着く。
木々の隙間から様子を窺うクレメンティアの目に飛び込んできたのは、思いもよらぬ光景だった。
粗末な丸太小屋の庭先で、白雪姫が一人の男性と親密そうに言葉を交わしている。それだけならば山岳民の若い男かと片付けられただろう。しかし、王妃の研ぎ澄まされた観察眼は、その男の場違いな異様さを即座に見抜いた。
(……何だ、あの男は?)
男が纏っているのは、仕立ての良い上質なシルクの旅装だった。泥汚れひとつないブーツ、手入れの行き届いた毛並みの良い馬、そして洗練された立ち振る舞い。王国の統治が届かぬ山間の地に、あまりにも不釣り合いな洗練された存在。
(こんな国家の周縁部に、なぜこれほど身なりの良い青年が潜んでいる?)
危険な臭いを察知したクレメンティアは、深呼吸をして意識を切り替えた。老婆の演技を完璧に装い、腰を深く曲げながら、バスケットを抱えて日差しの中へと足を踏み出す。
「――こんにちは、お嬢さん。今日は本当にいい天気だねぇ」
不快感を与えぬよう、かすれた親しみやすい声を作って呼びかける。不意の訪問者に一瞬身を硬くした白雪姫だったが、相手が貧しい老婆だと知ると、すぐに無警戒な笑みを浮かべた。
「ええ、本当に。洗濯物を干すのには絶好の機会だわ」
「そりゃあよかった。……ほら見ておくれ、うちの庭でたくさん採れたリンゴなんだよ。よければ一緒に食べないかい? そこにいらっしゃる男前さんも、遠慮なさらずどうぞ」
クレメンティアは気のいい農婦を演じ切り、バスケットから赤々と実ったリンゴを取り出した。何かを仕込んだと疑われぬよう、自分もそのうちの一つを無造作に手に取り、しゃくりと景気よく齧ってみせる。
白雪姫と青年が無警戒にリンゴを受け取るのを確認しながら、クレメンティアは老婆の笑みを崩さずに切り出した。
「ところで、お嬢さん。……そちらの男前さんは、お嬢さんの恋人さんかね?」
「まあ……!」
問われた白雪姫は、ぽっと頬を朱に染め、照れたように視線を落とした。
「まだ違うわ。でも……この方、隣国の王子様なんですって」
純真そのものの表情で語られたその言葉に、かじりかけたリンゴを前にして、クレメンティアの思考回路が一瞬で凍りついた。
「隣国の王子」――その名分を聞いた瞬間、クレメンティアの脳内で膨大な外交データベースが高速で検索された。
白雪姫がいずれ婚姻の適齢期を迎える日のために、近隣諸国の王家および主要な大貴族家門の系譜、そして姫と同年代の男子の容姿や年齢は、すべて暗記し尽くしている。
(……だが、妾の記憶にこの男の顔は存在しない。)
王妃は老婆の笑みを貼り付けたまま、シワの寄った目元を細めて尋ねた。
「まあまあ、王子様かい。それはそれは素晴らしいねぇ。……どちらのお国のお方なんだい?」
「……私は、カシム王国第二王子のアレックスと申します。お見知りおきを、おばあさん」
男は優雅に頭を下げた。だが、クレメンティアはその瞬間の男の細かな不審挙動を見逃さなかった。回答の直前、青年の視線が一瞬だけ斜め上方へと泳いだのだ。
(……些細な挙動だ。これだけで虚偽とは断定できぬ)
しかしそれは、クレメンティアの前で言い逃れをしようとした、不正を行う者の多くがその場で虚構を創作する時に無意識に見せる、典型的な視線移動のパターンだった。
(カシム王国……)
クレメンティアの脳内で、即座に整合性チェックが行われる。
「あらあら、カシムのオラフ王はお歳だと聞くけれど、こんなに立派なお世継ぎがおいでだったのねぇ。……そういえば、第一王女様の御婚約は無事に整いましたのかしら?」
「ええ……姉上でしたら、すでに盛大な結婚式を挙げられましたよ。パレードでは沿道に国民がこぞって詰めかけ、花びらを撒いて祝福しておりました」
青年は滑らかに、いかにも見てきたような虚妄を語ってみせた。
(――やはりか)
クレメンティアの心の中で、冷酷な確定診断が下された。
カシム王国に第一王女など存在しない。それどころか、カシムの「第二王子アレックス」はニ年前、流行病によって若くして没しているはずだ。目の前の男は、死者の名を騙り、無知な白雪姫に取り入ろうとしている完全な偽者でしかない。
(白雪の身柄を確保し、それを名分に我が国への介入を狙う国外勢力の手の者か?……放置すれば国家の重大な安全保障上のリスクとなる)
感情を一切挟まず、危険因子の迅速な無力化へと思考を切り替える。
「まあ、なんと素敵な。おめでたいお話を聞かせてくれたお礼に、もう一つリンゴをお上がりなさいな」
クレメンティアは老婆の大きな袖で覆うようにバスケットへ手を伸ばすと、指先に仕込んだ瓶から、自衛用に忍ばせていた無色無臭の強力な麻痺薬の粉末を、迅速かつ精密にリンゴの表面へ付着させた。
「さあさあ、遠慮なさらずに。男前さん」
白雪姫の手元にはすでに先ほどのリンゴがある。クレメンティアはそれを横目で確認し、新たなリンゴを青年へ差し出した。
親しげな老婆の笑みとともに差し出されたその「毒リンゴ」を、自らの正体が見破られたことすら気づいていない偽王子は、疑いもなく受け取った。




