02 鏡よ鏡
治安維持、関税交渉、感染症の兆候――一通りの政務的な問いを終え、室内には再び静寂が戻っていた。
クレメンティアは青白く明滅する鏡の前で、緊張をほぐすように細く息を吐く。そして、毎夜の儀式となっている「最後の問い」を口にした。
「……鏡よ、鏡。この世界で最も美しいのは誰だ?」
それは彼女にとって、単なる自惚れでも戯れでもない。王国の最高統治者として、民を心服させるに足る自らの威厳が維持されているかを確認するための、いわば定時チェックであった。
いつもならば、間髪を入れず無機質な合成音が『それは王妃クレメンティア様でございます』と返してくるはずだった。
だが、鏡の表面が不自然に明滅を繰り返す。わずかな沈黙の後、出力されたのは予期せぬ名前だった。
『――それは、白雪姫殿下でございます』
「……なに?」
クレメンティアの動きが完全に止まった。
一瞬の思考停止の後、ドクリと激しい鼓動が跳ね上がり、沸き立つような血の気が頭頂へと昇っていく。
(妾が……あの子に劣る、だと……?)
先王の急死以来、不眠不休で国を維持し、法を正し、誰よりも誇り高く美しくあろうと研鑽を重ねてきた。その自分が、奥深くで甘やかされ、何年も顔すら合わせていない放蕩王の娘に評価で後塵を拝するなど、到底あり得ないはずだった。
冷徹な脳内で、恐ろしいスピードで思考のギアが噛み合っていく。
(……待て。鏡の評価関数が動いたということは、外部データに変化があったということだ)
王妃の手が、机の端を強く握りしめた。
(どこぞの反乱分子が白雪を担ぎ上げ、妾を正統性のない『毒婦』として排除しようとしているのではないか? ――そうだ、辻褄が合う。最近、巡回騎士たちが見せていた、あの余計な不審さ。財務大臣が妾との面会を何かと理由をつけて避けていたこと。今にして思えば――クーデターの予兆……!)
一度芽生えた疑念は、彼女自身にはあまりにも整然としたロジックの鎖となって、クレメンティアの頭の中で揺るぎない「ひとつの惨劇のシナリオ」を鮮やかに組み上げていった。
バタン、と鍵のかかった扉が重々しい音を立てて閉ざされた。
私室を跳び出したクレメンティアのドレスの裾が、深夜の回廊を嵐のように激しくなびく。その顔に浮かぶのは、怒りと、冷たく研ぎ澄まされた警戒心であった。
「白雪姫は…」
扉脇に直立していた従者へ投げかけられた鋭い一言。それは廊下の空気を一瞬で凍りつかせるに十分だった。
「白雪姫は今、どこに居る!?」
「ひっ……!?」
従者は思わず身をすくめ、脂汗で顔を湿らせた。
王妃がこのような態度を見せるとき――それはいつだって、逃れようのない確固たる証拠と共に不正が白日の下に晒され、誰かの首が飛ぶ直前であったからだ。
「は、は……東の、東の塔にございます! この時間でしたら、姫殿下はそちらの読書室に……!」
声を絞り出す従者を置き去りにし、クレメンティアは迷いのない足取りで踵を返した。
(――やはりか)
胸の内で、禍々しい確信がより強固に黒く塗りつぶされていく。
東の塔。そこは本館から最も離れ、王妃である自身が政務で足を踏み入れることなどまずない死角だ。そのような場所に身を潜め、彼女は一体誰と何を企んでいるというのか。
(鏡は万能ではない。人間の内心までは映し出さず、文書に残らぬ密約や、ささやき声だけの陰謀を検知することはできぬ……!)
クレメンティアの脳裏に、かつて国を傾かせた先王の愚行と、その周囲に群がっていた腐敗貴族どもの醜悪な顔が不吉に閃く。
(政治の「せ」の字も知らぬ純粋な娘が、あのような毒虫どもに誑かされ、この国の均衡を揺るがす楔として利用されているのだとしたら――)
廊下に響く己の靴音すらも急き立てるように、王妃は目を細めた。
(直接問いたださねばならぬ。そして、白雪の周囲に巣食う不純物を、私の手で完全に排除せねば)




