01 氷の王妃
羊皮紙をめくる規則的な音だけが、広大な執務室を満たしていた。
「――以上が、東方領における穀物税の徴収漏れ、および代官による帳簿改ざんの報告書です」
若き官僚が差し出した書類を、王妃クレメンティアは視線だけで一瞥する。氷を切り出したかのような整った容姿、隙のない立ち振る舞い。病没した先王に代わり、この国の全権を握る彼女の瞳には、一切の情や逡巡の色がない。
「過少申告の率は一割二分。過去三年の遡及適用を含め、全財産の没収および流刑。法第十四条に従い、即刻執行しなさい」
「は、はい! 直ちに!」
官僚は青ざめた顔で深々と頭を下げ、逃げるように退室していった。
クレメンティアは小さく息を吐き、ペンを走らせる。彼女の行っているのは、ただ「法と計算」に基づいた公正な処理に過ぎない。放蕩を重ね、国庫を傾かせた先王が急死して以来、彼女は一日の大半をこの机で過ごし、膿の溜まりきった行政を力技で清算し続けていた。
だが、冷酷すぎる正確さは、時に人々へ別の恐怖を植え付ける。
――同じ頃、王都の雑多な市場。
「おい、聞いたか? また東方の伯爵家が潰されたそうだぞ……」
パンを売る店主が、客の男に声をひそめて囁いた。周囲を窺うその目は、怯えに泳いでいる。
「ああ。先王様が亡くなられてからというもの、あの王妃様の容赦のなさは異常だ。不審な急死だった先王様だって……本当は、心臓病に見せかける毒を盛られたんじゃないかって噂だぜ」
「滅多なことを言うな。……だが、次は誰だ? 先王様の血を引く、あのお優しい白雪姫殿下まで『病死』させられるんじゃないか……?」
そのとき、カツン、カツンと整然とした甲冑の足音が響いた。巡回中の王立騎士団である。
先刻まで囁き合っていた民衆たちは、示し合わせたように一斉に口をつぐみ、俯いて通り過ぎるのを待つ。
不正官僚や悪徳貴族は一掃され、減税によって市井の暮らし向きは確実に向上していた。飢える者は減り、夜道の治安は格段に良くなったはずだった。
しかし、街を覆っていたのは感謝ではない。
感情を一切排し、数式のように国を統制する王妃への、言いようのない閉塞感と、「いつか自分も排除されるのではないか」という根拠のない恐れだった。
政務を終えた深夜、クレメンティアは私室の奥へと向かう。重厚な木製の扉にいくつもの鍵を差し込み、慎重に解錠した。
静寂に包まれた小さな小部屋の中央には、青白く澄んだ光を放つ大きな鏡――古代の智慧を結集した情報処理機構『Arpeggio』が鎮座している。
感情、偏見、阿諛追従。人間が持ち込む不純なノイズを一切排し、ただ入力されたデータのみから客観的な事実を弾き出す――少なくとも、クレメンティアはそう信じていたこの鏡こそが、王妃の国政の要であり、同時に誰にも心を開けぬ彼女にとって唯一の「不変の拠り所」であった。
クレメンティアは鏡の前に立ち、凛とした声で問いかける。
「鏡よ、鏡。法に背き、不正な徴税を行う者、不当に得た財を蓄えている愚か者はまだ居るか?」
鏡の表面が滑らかに波打ち、無機質な合成音が部屋に響いた。
『――お答えします。本日の法執行および監査介入により、現時点で検出可能な不法な貴族ならびに官僚層は一掃されました。検出できる大規模な組織的不正は存在しません』
「……大変結構」
クレメンティアはわずかに表情を緩め、手元の手帳を開いた。
「次の議題だ。昨年に続き、今年も長雨と冷夏が懸念されている。広域の収穫量予測を出させよ。併せて、特定地域において食糧危機が発生する確率を算出」
『過去二十年分の気象観測データ、および現在の雲の流動推移から予測を出力します』
鏡の表面に細かい数式と地図の光線が浮かび上がり、高速で計算が実行されていく。
『……算出完了。七月中旬の長雨に伴う河川氾濫の危険度は、ウリタヴァ川中域東岸において極めて高くなると予測されます。これにより、ランツ領を中心とする三領地にて洪水、および湿潤環境に伴う害虫被害が発生。小麦の収穫量に甚大な損害を与える可能性は八一パーセントです』
「八割……無視できぬ数字だな」
クレメンティアの美しい眉が、思案深げに寄せられる。
「国家備蓄食糧の放出計画と、ウリタヴァ川沿いの堤防補強作業に必要な予算規模を算出せよ。被害が出る前に工期を間に合わせねばならぬ」
『了解しました。補強工事に必要な人件費、資材の流通経路、および備蓄拠点の最適配置のシミュレーションを開始します――』
青白い光の中に浮かぶ数字を見つめながら、クレメンティアは呟く。
人々の怨嗟も噂も関係ない。ただこの正確な予測と計算こそが、いずれ訪れる飢餓から国民を救うのだと、彼女は確信していた。




