9話 《過去改変》1回目②
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……硬い椅子の感触。鼻をくすぐる、香ばしいソースの匂い。
顔を上げると、正面には――死んだはずの父親がいた。
新聞を片手に、所在なげにテレビのニュースを眺めている。その、なんてことのない日常の風景が、今の俺には劇薬みたいに目に染みる。
自分の手を見る。小さい。あまりに、小さい。指先はぷにぷにと柔らかくて、節くれだった探索者の名残なんて微塵もありゃしない。
周囲を見渡せば、そこは十五年ほど前に住んでいたマンションのリビングだった。
ここは、過去……なのか? 本当に、俺は戻ってきたのか?
「どうしたの、ひろ? ハンバーグ、冷めちゃうわよ」
隣に座っていた母さんが、優しく微笑みながら話しかけてきた。
母さんの腕の中には、まだ二歳の妹が抱かれている。妹はふっくらとした頬を赤らめ、おぼつかない手つきで母さんの服の裾を握りしめていた。
目の前に広がる景色は、ただの幻覚や夢じゃない。
幼い頃の、記憶の底に沈んでいたはずの光景だ。
これが、俺の固有スキルである《過去改変》の力だというのか。
「き……(今日は何日……?)」
喉を震わせて問おうとした瞬間、脳内に濁流のような情報が流れ込んできた。
いや、違う。これは「思い出した」んだ。この肉体が持っている記憶が、今の俺の意識に同期していく。
現在は二〇〇七年七月十一日、夜の七時過ぎ。夕食の時間だ。
俺は六歳の幼稚園児。テーブルの上には、クマの形をしたプレートに盛りつけられた、手作りのハンバーグ。
スキルを使う前は二〇二五年だった。
今、目の前にあるのは十八年前の光景だ。
今の俺は六歳の幼児。目の前のハンバーグにウキウキしている感情が、内側から制御不能な勢いで湧き上がってくる。
どうやら、一つの体を二つの意識が共有しているような状態らしい。意識して命令を下せば手足は動くが、気を抜けば六歳の体が勝手におもちゃのフォークを振り回し始める。
これじゃあ、複雑な行動や大人びた会話をするのは至難の業だ。
思い出そうと意識を集中すると、六歳の自分が持つ記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってきた。
幼稚園での出来事、友達の名前、アニメの主題歌。しかし、明日以降の――つまり、この肉体がこれから経験するはずの「未来の記憶」は定かじゃない。
当たり前だ、十八年前の全記録を完全に覚えている人間なんていやしない。
今の俺が持っているのは、あくまで六歳の肉体が保持している過去の記憶なのだろう。
二十五歳の俺の意識は、そこに強引に割り込む形で存在しているに過ぎないわけだ。
仮に過去を変えたとする。その時に現代の自分は変えた過去を認識出来るのか。どの可能性も十分にありえる。
スキルの詳細が分からない以上は、過去を改変するのは慎重にした方がいい。
そういうわけで、とりあえずは身体の欲求にしたがって素直に食事を楽しむことにしよう。懐かしい家族団欒。幸せだった時間だ。
両親は、俺が子供の頃に亡くなった。今の俺の名は――横手緋呂。父親の名字だ。
両親がいなくなった後、母方の祖父に引き取られて「北條」を名乗ることになったんだ。
「先日、国内で突如として見つかった謎の巨大な穴ですが、その周囲で原因不明の異変が相次いで報告されています。世界各地で同様の現象が確認されており、政府は付近の住民に対して警戒を呼びかけています。現在、警察と自衛隊による封鎖作業が急ピッチで進められており……」
テレビのニュースでアナウンサーがそう語る声が聞こえた。
俺は思わず、手に持っていたフォークを止めて画面を凝視する。
「不思議な話ねぇ……。何なのかしら、その穴」
母さんの呑気な呟きが聞こえる。
そうだ、二〇〇七年。この年は、世界中に「ダンジョン」が出現した始まりの年だ。
今はまだ「不思議なニュース」で済んでいるが、これから日常は非日常に少しずつ侵食されていく。
ダンジョンの被害は増えていき、世界の秩序は崩壊して、誰もが一人では生きられない時代がやってくる。
その時に、この家族はいない。今のこの温かくて幸せな時間を、絶望しかない未来へ繋げてはいけないんだ。
(……変えてやる。今度こそ、誰も死なせない。俺の人生も、家族の運命も、全部ひっくり返してやるんだ)
俺は小さな、だけど確かな意志を込めて拳を握りしめた。
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