43話 紅白熊猫
三階層を探索し始めてから二時間が経過した。
横薙ぎに振った俺の剣が、ゴブリンの首を刎ねる。転がった首が石畳でバウンドし、霧となって消えていった。
《索敵》で反応があったのは五匹。数こそ少ないが、連携の取れた嫌な動きだった。
なんとか全滅させたものの、さすがに疲労が限界に近い。
HPもMPも、そろそろデッドラインが見え始めていた。
「……レベルが13に上がったぜ」
ゴブリンが落とした魔石を拾っていると、京極淳史が、隠しきれない高揚感を含んだ声で言った。
早い。本当に、若さゆえの成長曲線というのは鋭利だ。
俺とはたった五歳しか違わないはずなのに、レベルアップが早い。
京極は空中に浮かぶステータスウィンドウを凝視している。
傍から見れば、虚空に向かってパントマイムをしているような奇妙な光景だ。
他人のステータスウィンドウは、鑑定スキルがなければ見ることができない。
「……まあ、少しは待ってやるよ」
俺は肩をすくめ、彼の確認が終わるのを待つことにした。
四人もいれば、しばらくの間は《索敵》を一旦切ってMPを温存してもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は冷たい壁に背を預けた。
だが、それは致命的な油断だった。
「あっ!」
突如として、佐々木が驚愕に目を見開き、通路の先を指差した。
その視線を追うと、闇の帳を押し広げるようにして、巨大な影が近づいてくるのが見えた。
鈍重そうな、しかし圧倒的な威圧感を放つ赤と白の斑模様。熊――いや、それは熊猫だった。
「あれは――紅白熊猫! なぜ四階層の魔物がここに!」
俺は思わず絶叫した。
見た目こそ奇妙に鮮やかだが、その実態は体長二メートルを超える凶暴な肉食獣だ。
特殊な魔法こそ使わないが、強固な火炎耐性を持ち、物理的な破壊力はゴブリンの比ではない。
想定外の階層に魔物が出現する理由は、主に二つ。ハグレモンスターか、あるいはスタンピードの前兆だ。
ハグレは単独で徘徊する例外個体であり、稀ではあるが目撃例は少なくない。
対してスタンピードは、下層の魔物が上層へと押し流されてくる大規模災害だ。
深層の強力な種が群れを成して階層を駆け上がり、最終的には地上へと溢れ出す。一匹の出現だけでは判断がつかないが、どちらにせよ我々の手負える相手ではない。
今回、《索敵》スキルが沈黙していたことが最大の痛恨だった。
MPを温存しようと油断していたのだ。
俺が驚愕で動けない間に、京極が反射的に雷撃の魔術を放った。
「電撃矢!」
白光の矢が紅白熊猫の巨体を貫通する。魔物は苦悶の咆哮を上げたが、決定的なダメージには至っていないようだ。
それどころか、その一撃が獣の凶暴性を煽ってしまった。火炎だけでなく、雷に対しても相応の耐性があるのか、あるいは単純に生命力が桁違いなのか。
クランに所属せず、ネット上の断片的な情報しか持たない俺には、その詳細を測る術がない。
(勝てない……)
本能が、そして理性が即座に撤退を命じた。俺は肺腑の空気をすべて吐き出す勢いで叫んだ。
「全員、逃げろッ!」
絶叫と共に身を翻し、俺は二階層へと続く階段を目指して疾走した。
階段さえ登り切れば、通常の魔物は追ってこられない。
だが、こいつがもしスタンピードの先触れだとしたら、その法則すら無視して追いすがってくるだろう。それでも、地上まで逃げ延びることができれば、ギルドの職員が控えているはずだ。
背後からは仲間たちが必死に逃走する足音が聞こえてくる。
俺の号令に遅れることなく反応したようだ。魔物の追撃はまだ始まっていない。
先ほどの動きを見る限り、奴の速度ならば十分に振り切れるはずだ。このまま全力で走り抜ければ、きっと――。
階層を繋ぐ階段が視界に捉えられた。あと十メートル。
ドンッ!
突如、背中に凄まじい衝撃が走った。不意に、後方から強い力で突き飛ばされたのだ。
平衡感覚を失った俺は、石畳の地面へと顔面から激しく滑り落ち、無様に転倒した。
必死に顔を上げると、視界の端を佐々木祐樹が猛スピードで駆け抜けていくのが見えた。
続いて京極淳史が、俺の存在など端からなかったかのように無慈悲に通り過ぎていく。先頭を走っているのは六角佳正だ。
間違いなく、あいつらだ。俺を囮にして、自分たちだけが生き残る道を選んだのだ。
(くそっ、あいつら……絶対に許さない!)
憤怒が脳を灼く。だが、立ち上がろうともがいた瞬間、背後の気配に振り返った俺の視界は絶望に染まった。
紅白熊猫の巨大な顎が、すぐ眼前に迫っていたのだ。
鈍重だと思い込んでいたのはこちらの油断に過ぎず、奴は驚くほど身軽に距離を詰めていた。
このままでは、死ぬ。全身の血液が氷結するような、圧倒的な死の予感。
(ステータスオープン!)
震える意識でシステムを起動する。一か八かだ。この局面を打破できるのは、《過去改変》スキルしかない。
目前に立ち止まった紅白熊猫が、太い腕を振り上げる。
(《過去改変》発動!)
『過去改変A(TP:2P)』
『過去改変B(TP:5P)』
二つの選択肢が脳裏に明滅する。迷っている時間などない。
(『過去改変B(TP:5P)』だッ!)
紅白熊猫の鋭利な爪が、俺の眉間を裂く直前。
俺の意識は、猛烈な加速と共に因果の彼方へと跳躍した。




