29話【籠女 籠目】
茉宵が神社へ来るようになってから、一月ほどが過ぎた。
七月も半ばを迎え、境内には夏の陽射しが降り注いでいる。
「未充、その箱じゃないよ」
「え?」
「それ去年の提灯だから。探してるのは子供たちが使う鈴」
「あ、こっちか!」
祭りまでは、あと半月ほど。
社務所では、この日も朝から準備が進められていた。
古い祭具を一つずつ確認し、足りないものを書き出す。
童歌を書き写した冊子を人数分そろえ、子どもたちの名簿と練習日程を照らし合わせる。
準備は地味な作業ばかりだったが、誰ひとり文句を言う者はいない。
「鈴、十個……いや九個?」
未充が床へ並べた鈴を指で数え始める。
「一、二、三……」
途中で首を傾げた。
「あれ? 一つ足りない?」
「もう一回」
惑華が淡々と言う。
「最初から」
「分かってるって」
もう一度数え始めた未充だったが、
「一、二、三……六、七……九」
「五がない」
結禍が即座に指摘する。
「飛ばした」
「えぇ?」
「だから数えるの任せたくないの」
惑華がため息をつく。
そのやり取りを見て、社務所のあちこちから笑い声が上がった。
「未充ちゃんらしいね」
紅葉が笑うと、
「笑わないでよー!」
未充は頬を膨らませる。
「ちゃんと数えられるもん!」
「じゃあ、もう一回」
桜子が紙へ鉛筆を走らせながら言う。
「はーい」
今度は全員が未充の声に合わせて一緒に数え始めた。
「一」
「二」
「三」
「四」
六人分の声が重なり、静かな社務所へ小気味よく響く。
「……十」
「今度は合ってる」
惑華が小さく頷いた。
「ほら!」
未充は得意げに胸を張る。
「私だってやればできる!」
「みんなで数えたからね」
結禍の一言に、未充は『それ言わなくていいじゃん!』と抗議する。
笑い声がもう一度広がった。
その様子を見ていた茉宵も、小さく肩を揺らして笑う。
「なんだか賑やかだね」
「最近は毎日こんな感じですよ」
紅葉が少し照れたように笑った。
「最初は静かな神社だったんですけど」
「未充ちゃんが来るようになってから、特にね」
桜子がくすりと笑う。
「私のせい!?」
「半分くらい」
「半分なの!?」
また笑いが起こる。
茉宵はそんな五人を見回しながら、どこか嬉しそうに目を細めた。
「いいね」
ぽつりと呟く。
「こういう場所」
その声は小さかった。
けれど、紅葉にはちゃんと聞こえていた。
「茉宵先輩」
結禍が名簿を差し出す。
「子どもたちの保護者から返事が来た分、印を付けてもらえますか?」
「うん」
茉宵は自然に名簿を受け取り、慣れた手つきで一人ずつ確認していく。
そんなふうに、茉宵は既にいつものメンバーのひとりになって賑やかな時間をすごしていた。
祭具を確認して。
足りないものを書き出して。
途中で昼食を挟み、午後からは冊子を綴じたり、境内へ出て提灯を吊るす場所を確認したり。
気がつけば、ずいぶん長い時間が経っていた。
いつしか太陽は西へ傾き、境内を茜色に染め始めている。
昼間には真上から照りつけていた陽射しもいくらか和らぎ、石畳の上には木々の長い影が伸びていた。
蝉の鳴き声すら小さくなっている気がする。
「もうこんな時間」
桜子が時計をチラッと見て呟いた。
「今日はもう終わりだね」
「そうだね」
紅葉は手元の冊子を揃えながら答える。
「じゃあ、これ片付けて今日は解散にしよう」
「はーい」
未充が間延びした返事をする。
祭りの準備も、そろそろ終わりが見えてきていた。
――そのとき。
境内の方から、足音が聞こえた。
「? ……誰か来た?」
桜子が顔を上げる。
社務所の外を見ると、夕陽の差す石段を、一組の家族が上ってくるところだった。
父親と母親は、顔を見合わせて穏やかに笑い、
その後ろには、中学生くらいの少女が二人並んで歩いている。
父親は娘たちの歩幅に合わせるように何度か足を緩め、そのたびに後ろを振り返って優しく微笑んだ。
「この辺りは静かで暮らしやすそうね」
母親の言葉に、隣の二人の少女も小さく頷く。
「お祭り、楽しみです」
「友達……できたら……いいな」
そんな何気ないやり取りを見ながら、紅葉は自然と笑みを浮かべた。
ありふれていて、
どこにでもあるような家族。
父親がいて、
母親がいて、
子どもたちが並んで笑う。
そんな、ごく普通の幸せそうな光景だった。
「あれ、こんにちは」
紅葉は社務所を出て、小さく頭を下げる。
「こんにちは」
父親も穏やかに会釈した。
「この近くの方ですか? 実は最近、この近くへ引っ越してきまして。地域のお祭りに娘達が参加するので、星ノ宮さんに挨拶に来たんです。よろしければ案内をお願いできますか」
「そうだったんですね。星ノ宮は私です」
紅葉がそう名乗ると、父親は少し驚いたように目を丸くし、それから改めて頭を下げた。
「失礼しました。私は鶫籠と申します。少し前に、この近くの空き家へ引っ越してきたばかりなんです」
「ああ、あそこに新しく人が入ったって人ですか」
「ご存じでしたか。まだ慣れないことばかりで……」
父親は苦笑しながら続ける。
「実は一つ、お聞きしたいことがありまして。家の神棚を掃除していたら、それなりに大きな錠前が中にはいっていたんです。前の住人が置いていっただけなのか、この辺りではそういう風習があるのか分からなくて」
その言葉に、紅葉と桜子は思わず顔を見合わせた。
「錠前、ですか?」
「ええ。榊やお札と一緒に、鍵もない、錠前だけが一つだけ。初めて見たので、不思議に思いまして」
父親の横で、母親も困ったように笑う。
「縁起物ならそのままにしておこうと思ったんですが、意味も分からずに置いておくのも気になってしまって」
「……そうでしたか、そんな話は聞いたことないですね」
紅葉はうなずくと、家族へ視線を向けた。
「こちらがお嬢さんたちですか?」
「はい。ほら、挨拶なさい」
母親に促されて、姉らしい背の高いおどおどした猫背の少女が一歩前へ出て、頭を下げる。
「中学二年、……鶫籠雛璃」
続いて、隣の少女もぺこりと会釈する。
「妹のかごめです。小学6年生です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
紅葉も笑顔で頭を下げる。
「この子たちがお祭りに参加されるんですよね。それでしたら、お祭りの練習の日程を――」
紅葉がそう言いかけた、その時だった。
「紅葉ちゃん?」
社務所の奥から、柔らかな声がした。
茉宵が、手に帳面を抱えたまま玄関へ姿を見せる。
「お客さん?」
何気ない一言。
けれど、家族の姿を目にした瞬間。
茉宵の足が、ぴたりと止まった。
「――え……」
腕から力が抜ける。
抱えていた帳面が、ぱさり、と畳へ落ちた。
社務所の前が静まり返る。
茉宵は目を見開いたまま、一人の男性を見つめていた。
唇が小さく震える。
「……お父、さん?」
かすれた声だった。
その呼びかけに、男も弾かれたように顔を上げる。
茉宵を見つめ、
信じられないものを見るように目を見開いた。
「……ま……」
喉が震える。
「茉宵……?」
その名が零れた瞬間。
茉宵の膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。
そのあまりに突然の出来事に、紅葉たちも息を呑む。
誰もすぐには動けなかった。
「……っ」
男ははっと我に返り、隣に立つ妻へ視線を向けた。
妻と娘たちは、突然倒れた茉宵と、彼女の名を知っていた夫を交互に見つめている。
けれど、まだ誰も――茉宵が彼の娘だとは気づいていない。
男は拳を握り締めると、無理に表情を押さえ込み、小さく息を吐いた。
「……すまない」
妻へ向き直る。
「今日は帰ろう」
「え?」
「神社の方に任せたほうがいい。俺たちは部外者だから、また日を改めよう」
できるだけ平静を装った声で、何事もなかったかのように、この場を離れようとする。
だが、妻は茉宵から目を離さなかった。
「あなた」
静かな声だった。
「女の子が倒れたのよ?」
男は返事に詰まる。
「そんな状況で、黙って帰れるわけないでしょう」
◇◆◇
茉宵は理解してしまった。
どうして父は迎えに来なかったのか。
どうして養育費は、三年ほどで途絶えたのか。
どうして探しても、見つからなかったのか。
その答えは、目の前にあった。
父の隣には、新しい妻がいる。
その後ろには、父を『お父さん』と呼ぶ二人の娘がいる。
――ああ、そうか。
父には、新しい家族ができていたんだ。
養育費が途絶えたのは、
自分ではない、新しい娘が生まれたからだ。
だから。
――私は、置いていかれた。
昼と夜の境界。
茜色の境界線に、宵が墜ちる。




