26話【妬心】
週明けの休み時間。
教室のあちこちから話し声が上がる。
次の授業の課題を慌てて写す者。
机を寄せて菓子を分け合う者。
廊下へ出ていく者。
そんな中、結禍は自分の席に座ったまま、教科書へ視線を落としていた。
ページは開かれている。
けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。
「そう。そうして――」
少し離れた場所から、桜子の声が聞こえた。
結禍は、無意識に顔を上げる。
窓際にある紅葉の席の横に、桜子が立っていた。
二人は机の上に一冊のノートを広げ、何かを書き込みながら話している。
「ここ、少し違う」
「えっと……」
「ここを、こうして……」
紅葉が考え込むように唇へ指を当てる。
桜子はそのすぐ隣からノートを覗き込んで勉強を教えていた。
肩が触れそうなほど近い。
二人とも、周囲の騒がしさなど気にならない様子で、楽しそうに言葉を交わしている。
「…………」
結禍の指先が、教科書の端をわずかに掴んだ。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
――本当は。
不意に、言葉が浮かぶ。
――本当は、私が一番近い位置にいるはずなのに。
「……え」
自分の中から生まれた言葉に、結禍は小さく息を呑んだ。
慌てて視線を教科書へ戻す。
心臓が一度、大きく鳴った。
(何を考えてるの)
結禍は机の下で手を握る。
桜子は昔から、よく二人と一緒にいた。
幼い頃もそうだった。
紅葉と結禍。
その二人のところへ、桜子が遊びに来る。
三人で走り回り、日が暮れるまで話していた。
それが当たり前だった。
今だって、何も変わらない。
桜子が紅葉の隣にいることなど、これまで何度もあった。
なのに。
また二人の笑い声が聞こえる。
胸の奥に、ざらりとしたものが広がった。
桜子が邪魔だと、思った。
ほんの一瞬。
それでも、確かに。
「……っ」
結禍は教科書を閉じた。
少し強く閉じすぎたのか、乾いた音が机の上で鳴った。
近くにいたクラスメイトが一度だけこちらを見る。
結禍は何事もなかったように視線を落とした。
(違う)
桜子は友達だ。
昔から知っている。
大切な友達。
邪魔だなんて思うはずがない。
そう言い聞かせても、胸の内に生まれた感情は消えてくれなかった。
どうして。
なぜ。
今まで、こんなことはなかったのに。
紅葉が記憶を失ってからも、桜子が隣にいるのを見て、腹を立てたことなど一度もない。
むしろ、紅葉が独りにならないことに安心していたはずだ。
なのに今は。
その距離が、ひどく目障りに感じられた。
「結禍ちゃん?」
声がして、結禍は顔を上げた。
いつの間にか、桜子が目の前に立っていた。
「どうしたの?」
「……何が」
「さっきから、ずっと怖い顔してるから」
桜子は少し心配そうに眉を下げる。
その後ろから、紅葉もこちらを見ていた。
「体調悪い?」
「別に」
答えが、思ったより冷たくなった。
桜子が少しだけ目を見開く。
結禍自身も、その声に驚いた。
「……ごめん」
すぐに付け足す。
「少し、眠いだけ」
「そう?」
「うん」
桜子はまだ何か言いたそうだったが、やがて小さく頷いた。
「無理しないでね」
「……分かってる」
桜子が紅葉のところへ戻っていく。
その背中を見送りながら、結禍は胸元へ手を当てた。
心臓の鼓動は速い。
◇
それから数日が過ぎた。
放課後。
帰りのホームルームが終わると同時に、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を引く音に友人を呼ぶ声。
部活動へ向かう生徒たちの足音。
結禍は周囲に混じることなく、黙って帰り支度を始めた。
その動作はいつもと変わらない。
机の横に掛けていた鞄を肩へ掛けると、結禍は小さく息を吐き、教室を見回した。
窓際では、紅葉のところへ、桜子がすでに来ていた。
何かを話しながら、二人が自然に笑う。
その光景を見た瞬間だった。
「っ……」
胸の奥を、何かが鋭く締めつける。
思わず息が止まる。
――違う。
そんな言葉が頭の奥をかすめた。
その直後。
左手に鋭い痛みが走った。
「……え」
反射的に視線を落とす。
右手にはボールペンが握られていた。
その先端が、左手に押し当てられている。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
思考が止まる。
周囲ではクラスメイトたちが帰り支度を続けている。
誰もこちらを見ていない。
結禍は慌てて左手を右手で覆い隠した。
震える指先を袖の中へ隠し、何事もなかったように鞄を持つ。
心臓だけが、耳の奥で大きく鳴っていた。
誰にも声を掛けず、そのまま教室を後にした。
◇
人気のない住宅街。
結禍は壁へ背中を預け、小さく息を整えた。
震える左手を見つめる。
さっきまで教室で起きた出来事が、少しずつ頭の中で繋がっていく。
「……なんで」
右手を見る。
左手を見る。
自分の手だ。
どちらも、自分のものだ。
それなのに。
教室で紅葉の姿を見た瞬間、胸に浮かんだ感情を思い返した。
――左。
――紅葉の左側。
そこが一番近かった。
その瞬間。
理解できないほど強い嫌悪が胸を貫いた。
「……違う」
結禍は首を振る。
「そんなわけ、ない」
自分の左手が、紅葉に近かった。
ただ、それだけ。
なのに胸の奥では、
――ずるい。
そんな感情が湧き上がった。
「……え?」
思考が止まる。
何が、ずるいのか。
左手は、自分の手だ。
右手も、自分の手だ。
どちらも自分なのに。
それでも確かに、あの一瞬、
右手は左手を憎んでいた。
紅葉へ近づける、その位置を。
奪いたいと。
許せないと。
「……私」
結禍の唇が震える。
「私、自分に……嫉妬したの?」
言葉にした瞬間、背筋を冷たいものが走った。
そんな感情は、人間にはあり得ない。
右手と左手に優劣などない。
近いも遠いもない。
それなのに、私は自分の左手に嫉妬して、右手で左手を刺した。
「……どうしよう」
結禍は両腕を抱き締めるように身を縮めてその場へしゃがみ込んだ。
胸の鼓動が、まだ速い。
自分でも理解できない感情。
理解できない行動。
(『今は紅葉よりも結禍のほうが"できる子"と扱われるのは鏡月の恩恵で才能を、居場所を自分に移したからでは?』)
どこからか声がした。
どこか強気なのに、まるで全てを諦めたように淡々とした、心の中にだけ響く不思議な声。
(違う! そんなことしてない……)
(『鏡月の夢は才能を、記憶を、寿命を移せる。鏡月ならできるのだ』)
(でも!)
「大丈夫?」
不意に声がした。
現実の声が。
結禍は肩を震わせ、顔を上げる。
階段の向こうに、一人の女子生徒が立っていた。
夕日に照らされた赤茶けた長い髪。
背筋は真っすぐ伸び、すらりとした立ち姿は、どこか丹頂鶴を思わせる。
制服のリボンは、一つ上の学年のものだった。
「……怪我、してるでしょう」
穏やかな声だった。
結禍は反射的に左手を隠す。
「いえ……」
「隠せてないよ」
先輩は困ったように微笑んだ。
「ほら、血がボタボタとたれてて、痛そうな顔をして」
その言葉に、結禍は返す言葉を失う。
「家、ここだから入りなさい」
先輩は近くの家を指して静かに言った。
「でも……」
「手当てしなきゃ」
柔らかな口調に、不思議と警戒心は湧かなかった。
少し迷った末、結禍は小さく頷いた。
「……お願いします」




