22話【昔みたいに】
六月。
朝の空気には、春とは違う陽の熱が混じりはじめていた。
境内の木々は濃い緑を増し、まだ梅雨前なのに夏の季節が近い事を知らせている。
石段を上がってきた結禍は、社務所の前で一度だけ足を止めた。
星も見えない夜空を思わせる、艶やかな長い黒髪が背中へまっすぐ流れている。
腰のあたりを越える長さの髪は、朝日の光を受けてもなお、夜の色を失わない。
左目には薄い眼帯をつけ、その上へ長い黒髪を流していた。
白い布は黒髪に隠れ、よく見なければ眼帯をつけていることにも気づかない。
唯一露わになった赤い右目は、静かな光を宿している。
結禍自身は、その視界を気にする素振りも見せず、いつものように淡々と社務所の戸へ手をかけた。
「……おはよう」
小さく声をかける。
返事はない。
「紅葉?」
もう一度呼ぶ。
やはり返事はない。
結禍は靴を脱いで中へ上がる。
畳の匂いと、古い木の匂い。
閉め切られた室内には、少しだけ熱のこもった空気が漂っていた。
社務所の奥へ進む。
紅葉が寝室として使っている部屋の前で、結禍は足を止めた。
「……入るよ」
返事を待たず、結禍は小さく息を吐き、扉へ手をかけた。
そして、静かに開ける。
「紅葉――」
言葉は、途中で止まった。
結禍が扉を開けると見えたのは、こんもりとした布団の山。
……ではなく。
正確には、ベッドから半分転げ落ちた紅葉だった。
紅葉には膝まである白銀の長髪はあちこちに絡まり、本人を半分拘束するような状態になっている。
「……」
結禍は部屋へ入るなり無言になった。
視線の先の紅葉は、薄い肌掛け布団だけを抱え、器用に眠っている。
それは良い、問題はその横。
ベッドの脇には、丸められた冬布団が放置されていた。
「……」
数秒の沈黙。
結禍は額を押さえた。
「紅葉」
「んん……」
「起きて」
「あと五分……」
「却下」
容赦なく肩を揺する。
紅葉がもぞもぞと顔を出した。
「……おはよ」
「おはよう」
返事はした。
だが結禍の視線は既に別の場所へ向いている。
ベッドの横。
そこに転がったままの冬布団。
「……それ」
「ん?」
「いつから放置してるの」
紅葉は寝ぼけた顔でそちらを見る。
「…………」
数秒考える。
「たぶん、一週間くらい?」
「一週間」
声が低くなった。
紅葉は慌てて補足する。
「いや、暑くて寝てる間に落としちゃって」
「うん」
「そのうち片付けようと思って」
「うん」
「寒い日は回収してかけてるの」
「……そう」
完全に呆れられていた。
結禍は冬布団を指差す。
「六月」
「はい」
「もう使わない」
「はい」
「洗濯」
「はい」
「今日」
「はい……」
しょんぼりする紅葉。
その様子を見て、結禍は小さくため息を吐いた。
「なんで放置するの」
「まだ使うかも……」
「だからって」
言いかけたところで、境内の方から砂利を踏む音が聞こえた。
続いて、社務所の戸が勢いよく開く。
「おっはよー!」
朝の静けさを吹き飛ばすような声。
弔鐘 未充だった。
その後ろから、少し遅れて惑華が顔を出す。
「……おはよう」
「未充、声大きい」
「もう朝だよ!」
「朝だから静かにするの」
相変わらずのやり取りに、紅葉は思わず笑った。
「おはよう、二人とも」
「紅葉さん、おはよ!」
「おはようございます、星ノ宮さん」
未充は部屋を見回し、畳の上に置かれた冬布団と、なぜか正座している紅葉を見て目を輝かせた。
「あれ? もしかして説教中?」
「違うよ!?」
「半分そう」
結禍が淡々と答える。
未充が楽しそうに笑い、惑華は小さく息を吐いた。
騒がしくしていると廊下から軽い足音が近づいてきた。
「おはよー」
襖が開き、桜子が顔を出す。
そして室内を見回し、説教されている紅葉と、
腕を組んでいる結禍を見て。
「……ふふっ」
思わず笑った。
「なに?」
結禍が少し警戒したように聞く。
桜子は肩を揺らしながら首を振る。
「ううん」
それから優しく目を細めた。
「昔みたいだなって」
部屋が少し静かになる。
「昔?」
惑華が首を傾げる。
「うん」
桜子は微笑んだ。
「結禍ちゃん、最近ずっとそんな感じだもん」
紅葉の後ろをついて回る結禍。
それはまるで五年前の続きのように桜子には映った。
「……別に」
結禍は視線を逸らす。
「放っておくと本当に何もしないから」
結禍は不満そうに唇を尖らせる。
――けれど。
その耳だけは、少し赤くなっていた。
◇
結局。
今日のうちに、紅葉の冬布団は全員で洗って、片づけることになった。
社務所の庭へ布団を運び、桜子と惑華が物干し竿へ掛けていく。
六月の日差しはまだ強すぎず、吹き抜ける風が白い布団をふわりと揺らした。
「これでよし!」
未充が満足そうに腰へ手を当てる。
「……やっと終わった」
紅葉もほっと息を吐いた。
そのときだった。
「朝から賑やかねぇ」
ゆったりとした声が、境内へ響いた。
全員が振り返る。
石段の上に、小柄な老婦人が立っていた。
背は低いが、背筋はしゃんとしている。
細められた目はよく利き、境内に干された布団と、そこに集まる少女たちを順番に見渡していた。
「五鈴ばあちゃん」
紅葉が少し驚いたように声を上げる。
「おはようございます」
「おはよう、紅葉ちゃん。桜子ちゃんもいるのね」
五鈴ばあちゃんは、ふっと表情を和らげた。
それから未充と惑華、そして結禍へ視線を向ける。
「あらまあ。今日はずいぶん人が多いこと」
「おはようございます!」
未充が元気よく頭を下げる。
惑華もその隣で静かに会釈した。
「……おはようございます」
結禍も短く挨拶する。
五鈴ばあちゃんは、庭いっぱいに干された布団を見て、くすりと笑った。
「あらあら、大洗濯だったのねぇ」
「はい……一人じゃ終わらなくて」
「若い子が集まると仕事が早いねぇ」
五鈴ばあちゃんは、紅葉達の様子を眺めながら目を細める。
「……うん。賑やかなのはいいことだね」
その言葉だけが、少しだけ静かに境内へ落ちた。




