20話【暁鶏を見初めし開陽星】
暗い。
土と埃の匂いがする。
息をするたび、喉の奥がじゃり、と痛んだ。
結禍は、ぼんやりした頭のまま瞬きを繰り返す。
「……っ」
身体を動かそうとして、ようやく気づく。
背中が痛い。
いや、違う。
誰かに、強く突き飛ばされた感触が、まだ身体に残っている。
崩れる天井。
耳を裂くような音。
その寸前。
『結禍ちゃん!』
泣きそうな声で、自分を押した小さな手。
――紅葉。
そこでようやく、結禍は理解した。
自分が瓦礫の下敷きにならずに済んだのは、紅葉が突き飛ばしたからだ。
狭い。
崩れた木材と瓦礫の隙間にいる。
奇跡みたいに潰されてはいないけれど、外へ出られるほどの空間もない。
床には、お祭りで飾られていた道具が散らばっていた。
紫色の布も、千切れたしめ縄も、土埃にまみれている。
瓦礫の隙間には、紫色の鞘に納められた古い刀も埋もれていた。
祭りで、鏡や簪とともに飾られていたものだ。
けれど今は、それを気にする余裕なんてなかった。
薄暗い隙間から、かろうじて夕方の赤い光だけが差し込んでいる。
「……紅葉」
隣を見ると、紅葉はすぐ近くにいた。
まるで結禍を庇うみたいに、 覆い被さるような苦しい体勢のまま。
瓦礫に押し潰されてはいない。
でも、狭い空間の中で膝を抱えるみたいに縮こまり、顔を青くしている。
「……結禍ちゃん?」
紅葉が、震える声で呼ぶ。
その声を聞いて、結禍は少しだけ息を吐いた。
生きてる。
「……痛いとこある?」
「……ない、と思う」
「……そっか」
でも、安心はできなかった。
上を見れば。
崩れた梁にひび割れた柱。
少しでも動けば、さらに崩れてきそうだった。
外からは、遠くで誰かが叫んでいる声が聞こえる。
けれど、ここまでは届かない。
「……閉じ込め、られた?」
紅葉の声が小さく震える。
結禍は答えなかった。
答えたら、本当にそうなってしまう気がした。
代わりに、紅葉の手を掴く。
冷たい。
いつもより、ずっと。
「……だいじょうぶ」
自分でも、驚くくらい小さな声だった。
何が大丈夫なのかなんて、分からないのに。
紅葉は何も言わず、ぎゅっと結禍の手を握り返す。
沈黙が暗闇を覆う。
崩れた木の軋む音が響き、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていく。
そのときだった。
「――大丈夫?」
声がした。
結禍は、びくりと肩を震わせた。
女の人の声。
近いのに、どこから聞こえているのか分からない。
まるで、頭の内側に直接響くみたいだった。
紅葉も聞こえたのだろう。
ぱっと顔を上げる。
「……だれ? 助けてくれたの?」
「ええ。怖かったでしょう」
ぞくりと背筋が粟立つのに、どこか安心感のある優しい声。
紅葉は、小さく息を呑んだ。
「……助けてくれて、ありがとう、ございます」
震えているのに、その声は不思議なくらい真っ直ぐだった。
「わたしは、星ノ宮紅葉です」
それから、恐る恐る問いかける。
「……あなたは、どなたなんですか?」
「紅葉というのね」
声が、柔らかく笑う。
「覚えたわ」
「お祭りにいた子でしょう?」
「なら、貴女達は私の子供だもの」
結禍は息を呑んだ。
人じゃない。
子供でも、本能で分かる。
紅葉は暗闇の向こうを見つめている。
まるで、そこに本当に誰かが立っているみたいに。
「……もしかして」
紅葉の声が、小さく震える。
「神様……悠久様、ですか?」
一瞬の沈黙。
それから、その“誰か”は少し困ったみたいに笑った。
「神様、というのは間違っていないけれど」
「“悠久様”というには、少し正確ではないわね」
静かな声だった。
けれど、その響きには妙な懐かしさがあった。
「私は――接咲姫」
「よろしくね、星ノ宮紅葉」
その名前を聞いた瞬間。
空気が、変わった。
狭い瓦礫の隙間にいるはずなのに、どこか遠い森の匂いがした気がした。
「……接咲姫」
紅葉が、小さくその名前を繰り返す。
それから。
ぎゅっと、結禍の手を握った。
「……お願い、します」
縋るみたいな声で。
「私はどうなってもいいから……結禍を、助けてください」
結禍は、息を止めた。
どうして。
どうしてそんなことを言うのか、分からなかった。
「……紅葉」
接咲姫は、少しだけ悲しそうに笑った。
「ごめんなさい」
静かな声。
「私では、あなた達が潰されないようにするので精一杯だったの」
「あなた達を、そこから出してあげる力はないわ」
紅葉の肩が、ほんの少し落ちる。
「……そうですか。でも、ありがと、ございます」
結禍は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
やっぱり。
誰も助けてくれない。
ここで、ずっと――
「でも」
その声が、空気を切り裂いた。
「あの子なら、できるわ」
紅葉が顔を上げる。
「……え?」
そこには、瓦礫に埋もれていたはずの紫の鞘があった。
「この子、“明告鳥”ならできる」
その瞬間。
結禍には、紅葉の影が揺れた気がした。
「……あけつげどり?」
「ええ。あの子と貴女なら、できる」
紅葉は戸惑ったように辺りを見回した。
「でも……どこにも出口ないし、重くて動かない」
「大丈夫」
接咲姫の声は、ひどく優しかった。
お母さんみたいに。
「もし、貴女が望むのなら――教えてあげる」
「……え?」
「眠っているあの子を目覚めさせる言葉を」
紅葉の呼吸が、浅くなる。
結禍は隣で、その横顔を見ていた。
怖いはずなのに。
なのに紅葉は、どこか決意に満ちた顔をしている。
「そう――なら、私の言葉を、繰り返して」
暗闇の中。
どこにもいないはずの“誰か”が、微笑んだ気がした。
紅葉の喉が、小さく鳴る。
結禍は、繋いだ手に力を込めた。
「……紅葉」
けれど、紅葉はゆっくり首を振る。
その赤茶けた夕陽の中で見る横顔は、
泣きそうなくらい怖がっているのに、
それでも前を向こうとしていた。
「大丈夫。星見屋のとこの子になっていても、私は結禍のお姉ちゃんだから」
「――唱えて」
接咲姫の声が、柔らかく響く。
「“我、暁鶏の化身を宿す担い手也”」
紅葉の唇が、震えながら動いた。
「……われ、ぎょうけいのけしんを、やどす……にないて、なり」
言葉を紡いだ瞬間。
空気が、微かに震えた。
結禍は息を呑む。
紅葉の影が揺らめいた気がした。
「“我が現身を以て、断絶の権能を請願す”」
「わが、うつしみをもって……だんぜつの、けんのうを……せいがん、す」
ご、と。
どこか遠くで、風が吹いたような音がした。
瓦礫の隙間のはずなのに。
狭く閉ざされた空間の中へ、朝焼けみたいな匂いが流れ込んでくる。
結禍は、ぞくりと背筋が震えた。
何かが、来る。
「“旭光を簒奪されし夢の残滓、その恩恵を願い奉る”」
接咲姫の声が、ゆっくりと続く。
紅葉は苦しそうに息を吸った。
「きょっこうを……さんだつ、されし……ゆめの、ざんし。
そのおんけいを……ねがい、たてまつる」
その瞬間。
紅葉の影の奥で、まるで何かが目を開いたように揺らいだ。
紅葉は導かれるみたいに、瓦礫に埋もれていた紫の鞘へ手を伸ばす。
「……紅葉?」
細い指が、土埃にまみれた柄を握る。
結禍は、思わず紅葉の腕を掴んだ。
「……紅葉!」
怖かった。
本当に怖かった。
でも――紅葉は止まらない。
いや。
止まってくれない。
接咲姫の声を待つ必要もなく、紅葉は最後の言葉を落とす。
その声は、もう震えていなかった。
「我、宵闇に囚われし矮小な愚者を解き放たん」
紅葉は、小さく息を呑んだ。
その瞬間。
空気が震え、紅葉の影が、“裂けた”。
「――っ!?」
結禍は目を見開く。
まるで、刀の方が応えたみたいに。
――待っていた、とでも言うように。
ずるり、と。
紅葉は、紫の鞘から刃を抜き放つ。
旭光を封じ込めたみたいな大太刀。
長い。
子供の身体には不釣り合いなほどに。
なのに、紅葉はそれを“知っているもの”みたいに握っていた。
影の奥から、声が響く。
男とも女ともつかない、不思議な声。
「――我が依代にして、我が伴侶。ようやく、巡り会えた」
その声は、どこか嬉しそうだった。
「この時を――夢見、待ちわびていた」
瓦礫が、軋む。
結禍は、息を止めた。
その瞬間だけ。
自分と同じ黒髪だったはずの紅葉の髪が、
星の耀きみたいな“白銀の髪”へ変わっていた。
◇◆◇
――こうして。
私たちは、瓦礫の中から生きて出た。
結禍は、そこで小さく息を吐いた。
「……でも」
掠れた声が落ちる。
「代償は、ちゃんと払われていた」
紅葉が、息を呑む。
「助け出されてから。
紅葉姉さんは……私のことが分からなくなってた」
静かな声だった。
「双子の妹だったことも。
昔、どんなふうに一緒にいたかも」
結禍は、唇を噛んで震える声で言う。
「私を見ても、
他人みたいによそよそしく笑うようになって」
掠れた声が震え、涙混じりの呼吸が響いた。
「もう……!」
俯き、黒い髪が顔を隠す。
しばらく何も言えないまま、やがて言葉が落ちた。
「もうこれ以上、
私の近くからいなくならないでよ……!」




